レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年9月23日
- 登録日時
- 2017/03/29 00:30
- 更新日時
- 2018/09/29 09:16
- 管理番号
- 県立長野-16-183
- 質問
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解決
『須高』に「米持氏」についての論文はあるか。また、「米持氏」について記述されている資料があれば、その箇所を知りたい。
- 回答
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<雑誌論文>
・郷土雑誌『須高』を「米持」で検索したが、米持氏に関する論文、記事の該当はない。『須高』以外の郷土史関係の雑誌の記事にも確認できなかった。
<図書資料>
・『長野県姓氏歴史大辞典』p989では、米持氏の詳細は不明としながらも、『諏訪御符礼之古書』に「米持滝芳丸」「米持安芸守満貞」の名前が見える旨の記述あり。(『諏訪史料叢書』第2巻に所収されている『諏訪御符礼之古書』から、p.670, 679, 687, 703-704, 706, 715-717を紹介。)
・『上高井郡誌』復刻版p.138-140, 145, 150-152, 711、および『須坂市史』p.99-102,128, 185-192に米持氏についての記述が散見される。
・『北佐久郡志』復刻版p.411-412および『立科町誌』p223, 226-228, 276に、戦国期の米持氏についての記述が見られる。
・『信濃史料』第18巻所収の『文禄3年定納員数目録 下』(宮城県 尾崎一郎氏所蔵)の文書中(p.64-79)、「尾崎衆」(67p)の項目中に「一 七拾五石 米持次右衛門」が見られる。尾崎は現在の飯山市。
- 回答プロセス
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1 当館作成の郷土雑誌記事索引で『須高』を「米持」で検索する。「米持」で3件ヒットするが、米持町に関することで、米持一族に関するものではない。『須高』以外の郷土史関係の雑誌ではヒットはない。
2 『長野県姓氏歴史大辞典』p.989では、米持氏の詳細は不明だが、『諏訪御符礼之古書』に「米持滝芳丸」「米持安芸守満貞」の名前が見える旨の記述がある。
3 『信濃史料』索引巻の人名で「米持」を引くと、「米持滝芳丸」「米持安芸守満貞」以外にも該当があった。4の「米持次右衛門」以外は『諏訪御符礼之古書』からの引用のため、『信濃史料』ではなく『諏訪史料叢書』第2巻に所収されている『諏訪御符礼之古書』の当該箇所を紹介する。
4 『信濃史料』第18巻所収の『文禄3年定納員数目録 下』(宮城県 尾崎一郎氏所蔵)の文書中(p.64-79)、「尾崎衆」(67p)の項目中に「一 七拾五石 米持次右衛門」が見られる。「尾崎衆」の尾崎を『長野県の地名』で確認する。尾崎郷は現在の飯山市。
5 井上氏、米持氏の所領は長野県上高井郡にあたり、現在は須坂市のため、『上高井郡誌』、『須坂市史』で記述を確認。
6 Googleで「米持氏」と検索すると個人のブログ「山城めぐり」の「氏族の追跡(長享日記の真偽)⑤」【2018.9.6】に、立科町にある倉見城に米持氏がいた旨の記述があった。『北佐久郡志』、『立科町誌』を調べると、戦国期の米持氏についての記述があった。
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 中部地方 (215 8版)
- 参考資料
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- ・『長野県姓氏歴史大辞典』 同編纂委員会 1996(角川日本姓氏歴史大辞典20) (【N288/158】)
- ・『諏訪史料叢書』第2巻(復刻版) 諏訪教育会編・刊 1983 (【N241/7a】)
- ・『上高井郡誌』復刻版 上高井郡教育会編・刊 1914(千秋社 1999) (【N214/89】)
- ・『須坂市史』須坂市史編纂委員会 須坂市 1981 (【N214/50】)
- ・『立科町誌』歴史編上 立科町誌編纂委員会 立科町誌刊行会 1997 (【N222/118/3】)
- ・『北佐久郡志』精髄復刻版 長野県北佐久郡役所 1915 (千秋社 1997) (【N222/127】)
- ・『信濃史料』第18巻 文禄3年-慶長5年 信濃史料刊行会編・刊 1970 ( 【N208/28a/18】)
- ・『よくわかる長野県の名字』森岡浩著 しなのき書房 2008 (【N288/233】)
- ・『国史大系 60上 尊卑分脈第3篇』黒板勝美編 吉川弘文館 2001 (【210.08/クカ/60-1】)
- ・『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989 (【N283/13】)
- キーワード
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- 米持氏
- 甕氏
- 茂田井氏
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物 地名
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000213352