レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年04月26日
- 登録日時
- 2017/03/09 16:18
- 更新日時
- 2017/06/07 13:23
- 管理番号
- 埼熊-2016-132
- 質問
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解決
藤原道隆、道兼、道長、基経、時平の宗派と墓の場所を知りたい。
- 回答
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いずれの人物も墓所は「所在不明」との記述が確認できた。墓所と藤原氏の宗教について記述のあった下記の資料を紹介した。
『国史大辞典 12』(吉川弘文館 1991)
p207「藤原時平」の項目に続いて「又宇治墓(またのうじのはか)」あり。
「所在は不明。(略)『延喜式』諸陵寮は又宇治墓として載せ(略)現在宇治陵が治定されている京都府宇治市木幡一帯の地は、藤原氏一門の埋葬の地で、同陵内の三十番神塚には時平塚の称もあった、時平の墓とする伝承がある。」
p226「藤原基経」の項目に続いて「次宇治墓(つぎのうじのはか)」あり。
「所在は不明。(略)『延喜式』諸陵寮は次宇治墓として載せ(略)同陵域内の狐塚と称する塚は当墓にあてられている。」
『京都大知典』(JTBパブリッシング 2010)
p484「宇治陵墓郡」に「藤原冬嗣以下基経・道長・頼通など藤原北家一門の墓所と伝え(略)しかし藤原氏の衰退によって道長の建立した淨妙寺とともに荒廃し、今では道長の墓の在所さえも不明である。」とあり。
『藤原道長』(朧谷寿著 ミネルヴァ書房 2007)
p357 道長の葬儀について「導師は出家の際に戒師を務めた天台座主の院源が務めた。」とあり。
《国会図書館デジタルコレクション》
「日本宗教史講座 第1巻(国家と宗教)」(三一書房 1959)
p33 「伝統的に藤原氏は、興福寺の檀徒であり、又春日・大原野・吉田の三社の氏子であり、他方、石清水や加茂へも奉幣し、天台の信徒でもあった。」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2941849 国会図書館)国立国会図書館/図書館送信参加館内公開 20コマ
- 回答プロセス
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1 『国史大辞典』を調べる
『国史大辞典 12』(回答資料)
p217-219「藤原道兼」「藤原道隆」「藤原道長」の項目に墓の記述はなし。
『国史大辞典 2』(吉川弘文館 1980)
p82「宇治陵(うじのみささぎ)」の項目に「宇治陵被葬者一覧」あり。皇族でない藤原氏の墓は「又宇治墓」と「次宇治墓」以外の記述はなし。
2 藤原氏伝記資料を確認する
『藤原道長』(山中裕著 吉川弘文館 2008)
p196「寛仁三年〔1019〕九月二十九日に道長は東大寺で受戒した。(略)東大寺に倣って無量寿院を造営しようと決意したという。」
p208「道長の法華経に対する信仰は特に強かった。(略)興福寺をはじめとする南都の諸寺にも参詣しており、天台・真言密教にも深く帰依した。言わば、顕密、浄土など当時の人々の願いを包括した信仰であった。」
p221「大津透氏は、浄妙寺・金峯山・木幡の墓などについて詳細に述べ、道長一族の墓について調査した結果、道長の墓は、頼通が墓参した記述から、北に少しはなれ丘陵を登りつめた三二か三三号墓かと推測されている。そして、「藤原氏のように現在まで子孫は続いていても、個人としては墓がわからなくなってしまったのである」と述べている(『道長と宮廷社会』)。」
3 京都の地誌を確認する
『京都府の歴史散歩 下』(山川出版社 2011)
p55-56「宇治陵と淨妙寺跡」に「宮内庁管理の宇治陵(略)藤原冬嗣から始まる藤原北家の長者と、皇后となった子女・親王からなる藤氏一門の墓所(略)飛地を含めた37ブロックが宮内庁の管理下となった。」とあり。
4 《国会図書館デジタルコレクション》(http://dl.ndl.go.jp/ 国会図書館)を〈藤原道長 & 宗教〉で検索する
「日本宗教史講座 第1巻(国家と宗教)」(回答情報)
その他調査済み資料
『京都発見 1』(梅原猛著 新潮社 1997)
『平安人物志』(山中裕著 1974)
ウェブサイトの最終アクセス日は2016年4月25日。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本 (291 9版)
- 参考資料
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- 『国史大辞典 12』(吉川弘文館 1991)
- 『京都大知典』(JTBパブリッシング 2010) , ISBN 978-4-533-08005-0
- 『藤原道長』(朧谷寿著 ミネルヴァ書房 2007) , ISBN 978-4-623-04884-7
- キーワード
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- 藤原氏
- 墓所
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000211362