レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年11月02日
- 登録日時
- 2013/11/02 19:19
- 更新日時
- 2013/11/02 20:00
- 管理番号
- 20131102-2
- 質問
-
解決
亀泉集証について知りたい。
- 回答
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亀泉集証 【きせん・しゅうしょう】 コトバンク
http://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E6%B3%89%E9%9B%86%E8%A8%BC (2013/11/02確認)
朝日日本歴史人物事典の解説
生年: 応永31 (1424)
没年: 明応2.9.27 (1493.11.6)
室町時代の臨済宗の僧。美作国(岡山県)の赤松氏被官後藤氏の出身。蔭涼軒主として五山官寺を統轄し,幕府の政治に力をふるった季瓊真蘂の弟子となり法を嗣ぎ(一山派),応仁の乱(1467)では季瓊と共に近江へ逃れた。益之宗箴の後任で蔭涼職につき,約10年の間,五山統轄の事務に当たり足利義政の信任厚かった。また詩文を瑞渓周鳳らに学び能書でも知られた。諸山西禅寺,十刹聖福寺,天竜寺の坐公文(住持の称号)を受ける。その日記は『蔭涼軒日録』の大部分を占め,中世禅宗史はもとより室町時代の政治史の重要史料である。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
亀泉集証 きせん-しゅうしょう
1424-1493 室町時代の僧。
応永31年生まれ。美作(みまさか)(岡山県)の人。京都の臨済宗(りんざいしゅう)相国寺の季瓊真蘂(きけい-しんずい)の法をつぐ。将軍足利義政に信任され,相国寺の蔭涼(いんりょう)職をつとめ,公用日記「蔭涼軒日録」の文明16-明応2年の部分を筆録した。明応2年9月27日死去。70歳。俗姓は後藤。別号に松泉,松岳。
きせんしゅうしょう【亀泉集証】 国史大辞典
一四二四 - 九三
室町時代中期の禅僧(臨済宗一山派)。美作国の人。赤松氏家臣後藤氏。別号松泉(老人)。地名(ちみん)〓〓。応永三十一年(一四二四)に生まれる。相国寺雲沢軒の季瓊真蘂に師事して法を嗣ぐ。文正元年(一四六六)季瓊が近江に退隠すると益之宗箴とともに従った。文明十三年(一四八一)ごろ美作から上洛。十六年益之のあとを承けて蔭凉職に就任。将軍足利義政の信任厚く、示寂の年閏四月にようやく辞任の許可を得た。執務日記『蔭凉軒日録』を益之の部分も代筆し、自身の任期中はもちろん、辞任後も示寂直前まで執筆した。山城西禅寺(諸山)、筑前聖福寺(十刹)を経て、職辞任後の六月に天竜寺坐公文を受く。明応二年(一四九三)九月二十七日寂、七十歳。
[参考文献]
玉村竹二「蔭凉軒及び蔭凉職考」(『日本禅宗史論集』上所収)、勝野隆信「蔭凉軒日録残簡について」(『日本学士院紀要』九ノ三)、森末義彰「蔭凉軒日録と益之宗箴」(『国史学』二二)
亀泉集証 今泉淑夫 著 新装版 吉川弘文館, 2012 9784642052641
http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/25610828.html (2013/11/02確認)
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 各宗 (188 9版)
- 参考資料
- キーワード
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- 臨済宗
- 蔭涼軒日録 いんりょうけんにちろく
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000139934