レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2004年08月13日
- 登録日時
- 2011/02/18 11:03
- 更新日時
- 2013/10/09 13:06
- 管理番号
- 23-29
- 質問
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解決
源頼義は伊予守になったそうだが、何年に愛媛のどこにいたのか。
- 回答
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愛媛には赴任しなかった。
- 回答プロセス
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【資料1】P53に「伊予守に任ぜられながら」「任地の伊予国には赴任せず」「そのために伊予国の官物公事の徴納ができず」「私財によって進済したといわれる(『本朝続文粋』巻六、治暦元年頼義上奏文)」とある。
【資料2】P542項目「源頼義 みなもとのよりよし」に「国司として伊予に下向した徴証はないが」「河野親経とともに国内に四九カ所の薬師堂、八カ所の八幡堂を建立したとか、嫡子のなかった親経のあとを頼義の子が継いだという伝承を残した」とある。
【資料3】P43下段「予章記、予陽河野家譜の記録では、河野親経は子がないので、源頼義の子(孫ともいう)である親清を養って、あとつぎにしたとある。しかし源頼義や義家の子に親清というものがいないので、信じることもできないが、源氏と河野氏が親しかったことはわかる。(伊予史精義一七四)」とある。
【資料4】P174~175に【資料3】の内容を詳しくしたものがあり。「得能累世一覧と称する所に頼義来て温泉館(後の湯築城なるべし)に入る旨記載したれども、頼義の伊予入国なかりしことは、頼義の正伝と当時に於ける東北の状況とを封照して考うれば、自ら諒解することを得べきなり」ともあり(【資料5】より「湯築城」は松山市)。
【資料6】P113~123 松浦寅雄「伊予守源頼義と伊予国府関係の研究」にはP114に「十一世紀半ば(一六〇三)源頼義が伊予守になった時、一族を率いて伊予の国府桜井に居住し、頼義は陸の道前平野を中心に活動し」とある(【資料5】より「桜井」は今治市、「道前平野」は西条市とその周辺)。論文は源頼義の甥・村上仲宗に関してたがいに食い違いの多い古文書類を紹介している。
- 事前調査事項
- NDC
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- 四国地方 (218 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】『源義家』(安田元久/著、吉川弘文館、1989)
- 【資料2】『愛媛県百科大事典 下』(愛媛新聞社、1985)
- 【資料3】『風早地方史』( 高橋大蔵/著、北条市PTA連合会、1961)
- 【資料4】『伊予史精義』(景浦直孝/著、伊予史籍刊行会出版部、1924)
- 【資料5】『角川日本地名大辞典 38』(角川書店、1981)
- 【資料6】雑誌「愛媛の文化 第31号」(愛媛県文化財保護協会、1993)
- キーワード
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- 源頼義(みなもとのよりよし)
- 伊予入道
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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類似事例あり。
大阪府立中央図書館登録(史跡源氏三代の墓に埋葬されている、源頼義、義家、頼信についてわかりやすく書かれた図書:https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000001793)。
国立国会図書館登録(源頼義の子:https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000098704)。
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000078450