レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/05/20
- 登録日時
- 2014/06/11 00:30
- 更新日時
- 2014/06/13 16:52
- 管理番号
- 6000016461
- 質問
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解決
江戸時代末期まで天龍寺の塔頭寺院であったが、現在は廃寺となっている法苑寺についてわかる本はあるか。室町時代の三管領のうちの斯波家の京菩提寺であったとのこと。
- 回答
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法苑寺について詳しく書かれた資料は発見できず。
近代初頭の天龍寺境内地処分等についての研究論文をご紹介し、著者に問い合わせてくださるようお伝えした。
- 回答プロセス
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『京都・山城 寺院神社大事典』(平凡社)p504「天龍寺」に、江戸時代の伽藍について、宝永8(1711)年の朱印改の記録として、法苑寺の名があり。斯波家との関わり等についての記載はない。
斯波氏について『国史大辞典』第7巻(吉川弘文館)を確認する。p43-44に項目があり。足利氏の支族で嫡流は室町幕府の管領家となったが、斯波家の家督争いが一因となった応仁・文明の乱が契機となって衰退したとのこと。
また天龍寺については第9巻p1041に項目があり、これによると天明8(1788)年の末寺帳には塔頭41と記載され、またこの年の調査に敗壊塔頭172とあるとのこと。さらに文化12(1815)年に火災にあい、再建後の元治元年(1864年)にも兵火で焼失、明治10(1877)年には所有地の一部を上地しているとの記載がある。
『日本歴史地名大系 27 京都市の地名』(平凡社)p1080-1083「天龍寺」が元治元年の蛤御門の変の折の火災や上地について詳しく、特に排仏棄釈による上地について、惣門内地と内外散在地が諸塔頭に配分されていたが、明治3年に現境内と直作地以外は上地となり、さらに明治10年に天龍寺も一部が上地され、現有境内はかつての10分の1となったとの記載があり。各塔頭については言及なし。
大阪府立図書館から『天龍寺 嵯峨野に刻まれた五山巨刹の盛衰』(東洋文化社)を借用し、内容を確認。p136に蛤御門の変の際に焼けた塔頭について記した文書の引用があり。法苑寺の名はなし。p181-184「現在の塔頭」には、現存する塔頭について、明治期に合併した塔頭の名が挙げられているものもあるが、法苑寺については言及なし。
Cinii Articles http://ci.nii.ac.jp/ で天龍寺の塔頭に関する論文を探したところ、小林善仁「近代初頭における天龍寺境内地の景観とその変化」佛教大学 歴史学部論集 第2号(2012年3月)「http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/RO/0002/RO00020L023.pdf がヒット。内容を確認したところ、p26の表「天龍寺塔頭一覧(嘉永3年)」に、法苑寺の名があり。嘉永3(1850)年の絵図目録から作成された表で、山城国葛野郡嵯峨にある「処々散在塔頭分」のうちの1つとのこと。同論文は境内地に関するものであるため、法苑寺について詳しい記載はない。著者の連絡先等がhttp://kuris.cc.kagoshima-u.ac.jp/212893.html にあり。
『天龍寺』(東洋文化社)をお借りいただき、また上記論文著者が関連研究をしている旨をお伝えした。
なお、下記の本には法苑寺についての記載はなかった。
『京都大事典』(淡交社)
『古寺巡礼 京都 4 天龍寺』(淡交社)
『室町時代人物事典』(新紀元社)p97に、新田義貞を討ち取った斯波高経の子である、斯波氏経という人物が、出家したのち嵯峨に隠棲したとの記載があるが、法苑寺や京菩提寺との関連については言及なし。
- 事前調査事項
- NDC
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- 寺院.僧職 (185 9版)
- 参考資料
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- 『京都・山城寺院神社大事典』平凡社/編(平凡社)
- 『日本歴史地名大系27』(平凡社)
- キーワード
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- 天龍寺(テンリュウジ)
- 法苑寺(ホウエンジ)
- 塔頭(タッチュウ)
- 京都(キョウト)
- 寺院(ジイン)
- 歴史(レキシ)
- 仏教(ブッキョウ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- その他
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000154137