レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2005年12月11日
- 登録日時
- 2005/12/11 18:44
- 更新日時
- 2009/03/04 18:51
- 管理番号
- 山形県-2005-0010
- 質問
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解決
明治初期の山形県公立病院の院長となった長谷川元良が「”紙塑人工体”を造らせた」という文をみたのですが、詳しく知りたい。
- 回答
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山形県公立病院は山形市立病院済生館の前身となります。1873年(明治6)東村山郡天童村(現・天童市)に居住する豪商佐藤伊兵衛が、山形十日町の豪商長谷川吉郎治と天童村に私立病院を創立しました。その年、山形七日町に移転し、山形県公立病院の指定を受け、1874年(明治7)山形県公立病院としてとして開院。治療のための病院であるとともに、医学教育の機関としました。その後、1875年(明治8)大雪による崩壊と火災のため焼失し、現在地に新築されました。翌1876年(明治9)東京大学医学部より長谷川元良を院長に迎えました。同氏は1877年(明治10年)「キンストリーキ(紙塑人工体)」の模造を企画し、等身大の「吉田大八像」などの作者である天童の人形師神保平五郎に造らせました。これにより「教授おおいに裨益を得ることとなった」とあります。なお、この”紙塑人工体”は、東京上野第1回内国勧業博覧会において龍紋賞牌を賜りました。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 衛生学.公衆衛生.予防医学 (498 9版)
- 参考資料
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- 「山形市立病院済生館思い出の記」山形市立病院済生館/編
- 「山形市史資料 第47号」
- 「天童美術の流れ」宝樹社/編
- 「山形新聞 明治12年5月17日」
- キーワード
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- 紙塑人工体
- 山形県公立病院
- 済生館
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 書誌的事項調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000025690