レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018/11/04
- 登録日時
- 2019/03/27 00:30
- 更新日時
- 2019/03/27 15:46
- 管理番号
- 茨城-2018-159
- 質問
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解決
茨城県の神仏分離令における廃仏毀釈について、(楽法寺=雨引観音)についての資料はないか。
- 回答
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(1)『大和村史』(飯島 光弘/編纂,大和村役場,1974)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I062821295-00 ※相互貸借(貸出可)
第7編 各説 第2章 名所・旧蹟 第2節 寺院 p.709-719
「徳川末期現在の大和村地域内にあった寺院で判明するものだけでも三七寺」あった寺院が,明治維新政府の廃仏毀釈により「大和村にあった多くの寺院は整理され、現在五寺を数えるに過ぎない。残されたこれらの寺院は、徳川時代の檀家制度の遺風によって経営された。」との記述があります(p.709)。
続けて残っている五寺について解説があり,「楽法寺」(p.709-715)の項がありますが,廃仏毀釈についての記述はありません。
「真像寺」(p.717-718)の項に「明治になってから本堂が消失、明治二二年に再建された。」(p.718),「薬王寺」(p.719)の項に「明治の初め近在にあった七つの小寺を合併した。」との記述があります。
(2)『大和村史余稿』(飯島 光弘/編纂,大和村役場,1996)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I063108592-00 ※相互貸借(貸出可)
第1編 余稿編 第3章 近世 第1節 雨引山文化 p.151-240
「雨引山楽法寺由緒(楽法寺文書)」(p.151-160)の項に,「明治三年神仏混淆不相成タメ、鬼子母神ト改祭ス」との記述があります(p.152)。
「雨引山楽法寺と加波山寺院の争い」(p.203-221)の項に,「神仏分離」について記述があります。ここで扱っているのは,雨引山楽法寺末寺であった加波山神社別当正幢院(神仏混合寺)が檀徒を譲り,もっぱら神事奉仕に専念することになったことについての解説で,江戸時代の話が中心です。明治の廃仏毀釈については,「盛大を誇った真言宗寺院は壊滅の状態となった。」との記述があります(p.216)。
(3)『茨城県指定有形文化財雨引観音楽法寺東照山王社殿保存修理工事報告書』(文化財建造物保存技術協会/編,雨引山楽法寺,1990)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I049766550-00 ※相互貸借不可
「楽法寺の創立と沿革」(p.2-4)に「明治三年には神仏分離によって「醫王十二大将」と改称した時期があった。」との記述があります(p.3)。
(4)『雨引山楽法寺絵画資料調査報告書』(日本美術研究 第3・第4号合併号)(守屋 正彦/〔〔ほか〕著〕,筑波大学日本美術史研究室,2007)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I044570841-00 ※埼玉県立久喜図書館に所蔵あり
「雨引山楽法寺について」(寺崎大貴著,p.9-13)の中で,明治維新期の廃仏毀釈について解説されている部分があります(p.12)。
※その他確認済資料
・『雨引観音』(岡村 安久/著,筑波書林,1984)
・『ふるさと探訪』(永山 正/著,筑波書林,1994)
・『ふるさとの文化 創刊号』(茨城県郷土文化顕彰会,2006)
- 回答プロセス
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(1) ジャパンナレッジで雨引観音を確認
雨引観音=楽法寺 (桜川市本木)→旧大和村
(2) 市町村史を確認
(3) 雨引観音・楽法寺に関する図書を確認
- 事前調査事項
- NDC
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- 仏教史 (182 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 神衹・神道史 (172 9版)
- 参考資料
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- 大和村史余稿飯島 光弘/編纂大和村役場
- 大和村史余稿飯島 光弘/編纂大和村役場
- 茨城県指定有形文化財雨引観音楽法寺東照山王社殿保存修理工事報告書文化財建造物保存技術協会/編雨引山楽法寺
- 雨引山楽法寺絵画資料調査報告書守屋 正彦(1952~)/〔〔ほか〕著〕筑波大学日本美術史研究室
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000253995