レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年05月05日
- 登録日時
- 2016/01/27 09:45
- 更新日時
- 2016/05/19 11:39
- 管理番号
- 埼熊-2015-136
- 質問
-
未解決
「旗本 長井清太夫」「四方寺勘六」の支流について藤原氏の流れなのか知りたい。
- 回答
-
「旗本 長井清太夫」は『寛政重修諸家譜 第9』や『長井氏の研究』に記述があり、藤原氏の流れとする説と平氏良文流とする説があることがわかったが、「四方寺勘六」の流れは確認できなかった。調査経過で使用した以下の資料を提供した。
「旗本 長井清太夫」について
『寛政重修諸家譜 第9』(続群書類従完成会 1984)
p273 「平氏良文流 長井 今の呈譜に、正實は藤原氏にして齋藤別當實盛十六代の孫なりといふ。今長井五右衛門昌純が呈する所の系圖を按ずるに、(中略)豐前介正實といふ者見ゆ。恐くは同人なるべしと雖も舊によりて平氏良文流に属す。」とあり。
p273中段「正實(まさざね)」の項「淸大夫(中略)(寛永)十年二月七日加恩二百石を賜ひ、武藏國幡羅埼玉兩郡のうちにをいてすべて四百五十石を知行す。」とあり。
p273下段「實直(さねなお)」の妻「小宮山清左衛門昌長が女。正實にやしなはれて實直が妻となる。」とあり、『断家譜 第2』の人物と同一人。
『長井氏の研究』(浅見良治著 1997)
p6-17「浄法寺長井氏系譜図」
p9 「齋藤太 実盛」があり、「藤原氏流の系図」となっている。
p18-32「長井豊前守政実と御嶽山城」「政実」は『寛政重修諸家譜 第9』の「正實」と同一人物。
p33-39「長井右衛門尉信実とその後」
「(略)豊前守政実の息子で幼名彦六・長じて信実・実久と名乗り、右馬允・右衛門尉と伝えられている。」『寛政重修諸家譜 第9』の「實久(さねひさ)」と同一人物。
「四万寺勘六」について
『埼玉県地名誌』(韮塚一三郎著 北辰図書 1969)
p349「四方寺」の項「四方寺は古くは忍庄忍領に属し、「成田分限帳」に載する四方寺勘六の在所とみられる。」とあり。
『新編武蔵風土記稿[第3期] 11』(蘆田伊人編集校訂 雄山閣 1977)
p217-218「四方寺村」の項
p217「四方寺村は忍庄に属し、領名は前村に同じ成田分限帳に十五貫文在名四方寺勘六と云者出たり、これ当所に住せし人なるべし(中略)正保の頃は長井清太夫の知行にて、今も其子孫長井初太郎が知る所なり」とあり。
『成田記』(小沼十五郎保道著 歴史図書社 1970)
p298 付録「成田家分限帳」に「〔譜代侍〕同 十五貫文 四方寺勘六」とあり。
- 回答プロセス
-
《Google》(https://google.co.jp/ Google)を〈長井清太夫〉で検索する。
《Google ブックス》(https://books.google.co.jp/ Google)
「断家譜 第2」(田畑吉正著 斎木一馬、岩沢愿彦校訂 1976)
p277に「長井清太夫 妻」とあり。
〈四方寺勘六〉で検索するが該当なし。
参考図書を確認する。
『寛政重修諸家譜 第9』(回答資料)
自館目録を〈書名:長井 & 埼玉資料(郷土資料)〉で検索する。
『長井氏の研究』(回答資料)
以前のレファレンス「四方寺の歴史」を調査した資料を再確認する。
『熊谷市史 前篇』(熊谷市史編纂委員会編 熊谷市 1963)
p102「四方寺村」 「古くは忍庄忍領に属し、代官の支配する処であったが、寛永一〇年(一六三三)旗本長井清太夫の采地とし、明治維新にまで及んだ。以後の所属県ならびに合併村の変更前村に仝じ。」とあり。
『埼玉県地名誌』(回答資料)
『新編武蔵風土記稿[第3期] 11』(回答資料)
『成田記』(回答資料)
その他調査済資料
『江戸幕府旗本人名事典 2』(小川恭一編著 原書房 1989)
『埼玉人物事典』(埼玉県教育委員会編 埼玉県 1998)
ウェブサイトの最終アクセス日は2015年5月5日。
- 事前調査事項
- NDC
-
- 貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション (090 9版)
- 関東地方 (213 9版)
- 参考資料
-
- 『寛政重修諸家譜 第9』(続群書類従完成会 1984)
- 『長井氏の研究』(浅見良治著 1997)
- キーワード
-
- 長井 清太夫
- 四方寺 勘六
- 埼玉県
- 熊谷(埼玉県)
- 藤原氏
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187556