レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年10月24日
- 登録日時
- 2013/10/24 18:01
- 更新日時
- 2013/10/27 03:05
- 管理番号
- 045
- 質問
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解決
戦国時代、大名や配下の武将が村や寺社などに対して禁制(きんぜい)を出しているが、これらはどの程度の効力を持っていたのか。
- 回答
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禁制は、掟や禁令を広く告知するため作られる古文書の形式のひとつで、鎌倉幕府や室町幕府が禁制を出しています。戦国期には、戦乱の兵火による被害を避けるため、寺社などが軍勢の将や戦国大名に保護を求めて禁制を申請し、これにこたえて禁制が出されることが多くなります。
戦国末期に現尼崎市域に対して出された禁制の一覧と、そのうちの3点の図版・解説を、『図説尼崎の歴史』上巻近世編第1節1及び中世編第3節2に掲載していますので、どうぞご参照ください。
後者に掲載された、羽柴秀吉が天正10年(1582)10月18日に塚口神家に出した禁制を例にとると、秀吉は配下の軍勢に対して塚口神家への乱妨狼藉や放火、矢銭(戦争税)及び兵糧米を徴収することなどを禁じており、安全を保障する内容となっています。なお、同年同月中に、池田恒興(つねおき)も塚口に禁制を出しています。 この年の6月に本能寺の変があり、その後の清洲会議の結果、従前に引き続き池田恒興が摂津一円を預かることになりました。秀吉・恒興による地域支配安定化の過程で、こういった禁制が発せられたものと考えられます。
禁制を出す前提として、当該の村や寺社は禁制発給者側(前述の禁制であれば秀吉方)に対して安全を保障してもらうための代価を支払っています。発給する側にとっても、乱妨して矢銭兵糧をとるより、代価を得て禁制を出す方が戦費をまかなううえで合理的だったわけで、こういう事情を考えれば、禁制はそれなりに有効に機能していたものと考えられます。
もちろんそれは、発給者側の軍勢の行為を制限しているだけで、敵方の軍事行動はまったく制約を受けるものではありませんでした。そういう意味では、戦場の村々は常に兵火の脅威にさらされており、武装して自衛しているのが普通でした。
- 回答プロセス
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1 禁制についての一般的な解説書の例
◆『国史大辞典』項目「禁制」
2 現尼崎市域に出された禁制を紹介した文献
◆『尼崎市史』第1巻 通史編古代・中世
◆『尼崎市史』第2巻 通史編近世
◆『尼崎市史』第4巻 史料編古代・中世
◆『尼崎市史』第5巻 史料編近世上
◆『図説 尼崎の歴史』上巻/Web版『図説 尼崎の歴史』
〇中世編第3節2「港町尼崎と塚口寺内町」執筆者:仁木宏
次の2点の禁制の図版と解説を掲載している。
元亀3年(1572)3月日「長遠寺建立につき織田信長条々」(長遠寺文書)
天正10年(1582)10月18日「塚口神家宛て羽柴秀吉禁制」(地域研究史料館蔵、岸岡茂氏文書)
〇近世編第1節1「織豊期の尼崎 戦乱から平和へ」執筆者:横田冬彦
永禄11年9月日「織田信長禁制」(本興寺文書)の図版・解説及び、「織豊時代 尼崎地域の禁制」と題する一覧表を掲載し、全体的な考察を加えている。
3 禁制の有効性について
禁制の有効性について具体的に論証した研究文献等を見出すことができなかったので、中世担当の史料館専門委員にアドバイスを求めたうえで、前記回答文のとおり回答した。
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210)
- 近畿地方 (216)
- 参考資料
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- 『国史大辞典』第4巻 吉川弘文館発行 昭和59年 (当館請求記号 203/コ-4)
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『尼崎市史』第1巻・第2巻・第4巻・第5巻 昭和41年・43年・48年・49年発行
(
当館請求記号 219/A/ア-1・2・4・5) - 『図説尼崎の歴史』上巻 平成19年発行 (当館請求記号 219/A/ア)
- キーワード
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- 禁制
- 戦国
- 照会先
- 寄与者
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- 尼崎市立地域研究史料館専門委員
- 備考
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Web版 図説尼崎の歴史 中世編第3節2「港町尼崎と塚口寺内町」
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/02chuusei/chuusei3-2.html
Web版 図説尼崎の歴史 近世編第1節1「織豊期の尼崎 戦乱から平和へ」
http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/03kinsei/kinsei1-1.html
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 歴史
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000139460