レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/04/11
- 登録日時
- 2018/03/30 00:30
- 更新日時
- 2018/03/30 00:30
- 提供館
- 宮城県図書館 (2110032)
- 管理番号
- MYG-REF-170112
- 質問
-
解決
戊辰戦争後に仙台藩から北海道へ移住した家臣団の,没収前と没収後の石高について知りたい。
- 回答
-
下記資料に記載がありました。※【 】内は当館請求記号
資料1 北海道『新北海道史 第3巻』北海道, 1971【211/ホ4/3】
p.323「第三章 開拓基礎事業の進展」-「第二節 移民の状況と開拓地の展開」-「三 諸藩・士族団体の移住と開拓地の展開」-「戊辰戦争と仙台藩」の項
「(前略)藩主伊達慶邦はその封土六二万石をいったん没収され,(中略)新たに実高二八万石(これを旧石盛の表高に引き直すと約一八万石)の地を下賜され,実子亀三郎が相続した。(中略)家臣もまた相伝の知行地をすべて取り上げられ,ことごとく廩米の支給をうけることになった。しかもその支給高は極端に引き下げられ,明治二年四月の基準によれば六等級に分けられ,その(一)は「一門」に対し一律に五八石五斗(玄米四斗五升入り一三〇俵),その(二)は「一家・一族」などと称するものへ二四石七斗五升(同上五五俵)という割合であった。」
pp.323-324「仙台藩士族の立場」の項
「亘理の館主伊達邦成(藤五郎)は仙台藩「一門」の筆頭であり,二万四〇〇〇石余の知行高を有していた。同じく角田の石川邦光(源太)は二万一〇〇〇石余,岩手山の伊達邦直(英橘)は一万四〇〇〇石余を領していた。白石城主片倉邦憲(小十郎)は「一家」であり,一万八〇〇〇石を領していた。(中略)このほとんどを失ったのであり,(後略)」
資料2 亘理町史編纂委員会『亘理町史 上巻』亘理町, 1975【K217.1/ワ2/1】
pp.573-576「第四編 明治時代」-「第一章 亘理伊達氏の北海道開拓」-「一 移住の発端と経過」-「(一) 打ちのめされた亘理伊達氏」の項
p.575「(前略)亘理伊達氏は仙台藩の御一門で,二万三千石,亘理,宇多の両郡を領有していたが,わずか一三〇石(一三〇俵支給)に減らされた。(後略)」
資料3 角田市史編さん委員会『角田市史 2』角田市, 1986【K215.2/カ2/2】
pp.692-694「近代角田の幕開け」-「第一章 明治維新と角田」-「二 仙台藩の処分と角田」-「分割支配」の項
p.693「(前略)明治二年(一八六九)四月に定められた廩米基準によれば,一門一三〇俵,一家~太刀上五五俵,大番組(一〇〇石以上)二五俵,同馬上以下一六俵,組士十二俵,凡下扶持人八俵となっている。これにより二万三千石の石川氏も,わずか一三〇俵の蔵米しか支給されないことになった。(後略)」
資料4 岩出山町史編さん委員会『岩出山町史 通史編 下巻』大崎市, 2011【K233.1/093/2】
pp.33-39「第一編 近代」-「第一章 近代の幕開け」-「三 明治維新と北海道移住」-「戊辰敗戦と武士の処分」の項
p.37「(前略)一門衆は一律一三〇俵(六五石),(中略)伊達邦直も一三〇俵と決定され,(後略)」
年表p.17「明治元(1868)年」の項
「12月 仙台藩の62万石から28万石へ減封が決定。岩出山伊達家は1万4千石から65石に」
資料5 読売新聞東北総局編著『白石城物語』白石市文化体育振興財団, 2001【K211.3/01X】
p.256「領地没収」の項
「(前略)仙台藩は六十二万石から二十八万石に減封された。(中略)一門以下すべて給与は玄米で支給されることになった。片倉家は従来の一万八千石からわずかに玄米五十五俵が支給されるだけとなり,(後略)」
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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戊辰の役(1868-1869);仙台藩;開拓--北海道
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 社会人
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000233660