レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年08月27日
- 登録日時
- 2010/08/27 12:16
- 更新日時
- 2011/01/19 16:08
- 管理番号
- 22-60
- 質問
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解決
・壬生川城はどこにあったのか
・伊予十城は、どの城を指しているのか
- 回答
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【資料1】【資料2】愛媛県で「壬生川」という地名は東予市(現西条市)のみ
【資料3】愛媛県下の城館跡一覧には「壬生川城」はなし(p7-77)
【資料4】。鷺ノ森城 部落:壬生川(古子) 地区:壬生川 「…応永元年(1394)鷺の森に土居構えの城を築き、桑原河内守通興に守らせた。後、桑原は壬生川氏と称す」(p223)
【資料5】鷺森城(p74-77) 「〈伊予温故録〉 壬生川村古子に在り。河野家譜に云う。当城は河野通之の時、一族桑原河内守通興をして此城を築き移住せしめ、道前各郡の鎮撫となす。通興因て氏を壬生川と改め、子孫相伝へ十八将の一人に列す。…壬生川摂津守通国討死の後桑原三郎兵衛相続せり。天正13年、小早川隆景これを攻め、三郎兵衛防戦、屈してこれに死し城陥る。天正16年、福島正則舎弟福島助六をしてこれに居らしむ。…」
【資料6】(p106)「…彦七ら大森氏のながく拠った山城の千里城は、豊臣秀吉の四国平定後、各地にあった城は破壊されたが湯築城をはじめとする伊予の十城の一つとして残される。…」
【資料7】千里城(p51-55)の項に「…愛媛大学田中歳雄教授によれば、豊臣秀吉の四国平定後、各地にあった城は破壊されても、千里城は湯築・大津・本尊・興居島・鹿島・来島・小湊・・櫛辺・壬生川など十城と共に残される。…」
鷺森城(p256-260)
【資料8】(p42-43)「…これよりさきこの閏7月6日付及び18日付で、豊臣秀長および秀吉は、小早川隆景に宛てて、伊予国の城々の接収を遅滞なく念入りにするようあらかじめ命令している。この旨をうけていた隆景は、翌天正14年3月次のような指令を部下に与えて、伊予各地域において城割を大規模に実施するよう命じた。すなわち軍事上の重要拠点となる城、それも2万貫以上の広さの領地を支配する大きな城10ヵ所(湯築・大津=大洲・せり・本尊(ほぞん)・興居島・賀島=鹿島・来島・古湊・櫛辺・壬生川)のみを残して、それ以外の城はすべて破壊することとし、…」
【資料4】【資料5】より、壬生川城は、鷺森城を指す可能性が高い。
【資料6】【資料7】【資料8】より、千里城址の説明書きにあった伊予十城とは「湯築・大津=大洲・せり・本尊(ほぞん)・興居島・賀島=鹿島・来島・古湊・櫛辺・壬生川」を指す可能性が高い。
- 回答プロセス
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・壬生川城 「壬生川」という地名は、愛媛県内には東予市(現在の西条市)にあるのみ。この時期に「壬生川」にあった城は「鷺森城」である。
・伊予十城 千里城の記述に、伊予十城に触れている部分がないか探す。【資料7】に十城という記述をみつけ、田中歳雄氏の著作の内、関係のありそうな資料を調査。
- 事前調査事項
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先日、砥部町(愛媛県)の千里(せり)城址に行った際、そこにあった説明書き(平成四年八月 砥部町教育委員会設置)の2点について知りたい。帰宅後インターネットで検索したら、同様の記述があった。
「…豊臣秀吉の四国平定後も、松山の湯築城やに壬生川城などとともに伊予十城の一つとして残されていた…」
- NDC
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- 四国地方 (218 9版)
- 日本の建築 (521 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】角川日本地名大辞典 愛媛県 (K290-55)
- 【資料2】日本歴史地名大系 愛媛県の地名 (K290-54)
- 【資料3】愛媛県中世城館跡(愛媛県教育委員会刊 1987) (K209-74)
- 【資料4】東予市誌(東予市刊 1987) (K291.6-4)
- 【資料5】伊予の古城跡 改訂3版(伊予史談会刊 1998) (K200-34-カイ)
- 【資料6】砥部町誌(砥部町刊 1978) (K204-2)
- 【資料7】古城をゆく(愛媛新聞社刊 1972) (K293.6-6)
- 【資料8】北条の人文・自然(北条市刊 1965) (K293.3-2)
- キーワード
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- 壬生川城(にゅうがわじょう)
- 千里城(せりじょう)
- 鷺之森城(鷺ノ森城)(鷺森城)
- 伊予十城
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000070526