レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2012年02月21日
- 登録日時
- 2012/02/23 12:01
- 更新日時
- 2012/03/02 08:53
- 管理番号
- 2009-0061
- 質問
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解決
吾妻山麓の木地師に関する資料について知りたい。
- 回答
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当館所蔵の資料の中から下記の資料をご紹介します。
資料①のP180~192に、「木地屋のくらし」と題する記述があり、そのなかに「中津川にも、広川原や岩倉の奥山に数家族ずつおり、江戸時代を通じて村民の生活と密接な関係をもっていた」と記載されています。文化から文政にかけての中津川の木地屋の数は、武頭沢が5軒、広川原東俣が4軒、獄谷に6軒(獄谷は全て半農半木地屋)とされています。
木地屋のくらしについて、文化11年の凶作にさいして、拜借米の歎願書に添えて提出された木地屋の収入と支出の調書が掲載されています。いずれも苦しい生活であったことが十分想像される内容になっています。また、寛政6年から寛政9年にいたる中津川の木地器産額が表となって載っています。
資料②のP228~237には、「木地屋の生活」と題する記述があります。資料①が参考資料としてあげられており、記載内容の多くが重なっているなか、資料②には中津川の木地屋8人のそれぞれの家族が紹介されています。家族構成としては格別特異な点はみられないとも記されています。
資料②の最後に、「木地屋という特殊職業集団にたいして、藩はどのような支配統制をなしたものであろうか。木地屋側の資料を通じてうかがえるところは、殆んど放任に近いものであった。木地屋という特殊職業は、封建社会においてはことに、藩の特別な保護政策がなければ立ちいかないものであったらしい」と結んでいます。
資料③のP41~45の「磐梯・吾妻山麓を中心とした地方」の記述のなかに、「『桧原軍記』によれば、猪苗代の木地小屋に文明年間(1469~1487)にすでに木地挽等七十余軒あった」との記載があります。
また、磐梯・吾妻山麓の各小屋ごとの木地屋の軒数が、延享3年(1746)から明治5年(1872)まで一覧表にまとめてあります。これによると、文政10年(1827)が114軒、明治5年(1872)が42軒となっております。書名のとおり、福島についての記述が大部分をしめてます。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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「吾妻連峰 総合学術調査報告」(山形県総合学術調査会編)に、「元小屋は木地屋集落の名残が濃いようである」(P229)と記されている。
- NDC
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- 東北地方 (212 9版)
- 森林史.林業史.事情 (652)
- 参考資料
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資料①村史なかつがわ/中津川村史編纂委員会編/1960(YK272.3/ナカ)
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資料②羽前地方史の研究/伊豆田忠悦/1979(YK209/イズ)
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資料③会津の木地師 歴春ふくしま文庫/滝沢洋之/2001(384.38/タキ)
※( )は当館の請求記号です。
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資料①村史なかつがわ/中津川村史編纂委員会編/1960(YK272.3/ナカ)
- キーワード
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- 吾妻山
- 中津川
- 木地師
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000102141