『20世紀世界紛争事典』(三省堂)のチェコの項(p881)に「リディツェ虐殺」、内容は「1942年6月9~10日,ドイツ軍の支配下のリディツェ村で村民の虐殺事件が起きた」とある。『野の花は生きる-リディツェと広島の花たち』の冒頭(p11-19参照)の説明は以下のようなものである。 1942年の5月27日、プラハの街でナチの親衛隊長総督代行のラインハルト・ハイドリヒが暗殺者に襲われ、数日後に死亡した。ドイツ占領軍は犯人の探索を試みたが、首謀者の特定までには至らず、同年6月10日、ナチの親衛隊たちは、リディツェを暗殺者を匿った村として罪をきせ、反逆者のみせしめに村の15歳以上の男たちを次々に連れ出し、銃殺していった。一方、15歳以上の女性は強制収容所で働かせるため、村の惨劇を知らぬまま連行され、労働力のない子どもたちは親からの離散を余儀なくされ、国外へと連れ出された。無人と化したリディツェ村は金品が奪われ、家々が壊された後、すべてが焼き払われた。ナチスは自国の青年を「教育する」参考資料としてリディツェ村が消滅する様子を2年間フィルムに記録し続けたという。犠牲者の数は男性(15歳以上)173人(p15参照)、強制収容所へ連行された女性(15歳以上)は203人、うち60人がガス室へ。国外に連れて行かれた15歳以下の子ども105人、うち89人がガス室へ。(p30参照) なお、リディツェ村がハイドリヒ暗殺の報復対象となった理由について『プラハは忘れない』(草の根出版会)のp48に「リディツェ村に、その的がしぼられたのは、たまたま一軒の農家ホラーク氏が三年前から行方不明で、どうやらイギリス空軍に参加しているとなったから」という説明がなされている。