レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2016年12月28日
- 登録日時
- 2018/08/18 15:59
- 更新日時
- 2018/12/13 18:45
- 管理番号
- 埼熊-2018-036
- 質問
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解決
室町時代後南朝の武将である野長瀬氏について、名前の読み、活動地域、ほか同氏に関する情報が知りたい。
- 回答
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以下の資料を紹介した。
『姓氏4000歴史伝説事典』(志村有弘編 勉誠出版 2008)
p924「野長瀬(のながせ・やながせ)」
「【発祥・系譜・分布】紀伊野長瀬氏は、紀伊熊野街道中辺路にある近露の豪族・熊野八庄司の後裔か。『野長瀬横矢系図』によれば野長瀬庄司・野長瀬源太郎が清和源氏の子孫として登場し、『太平記』によると、元弘二年(一三三二)に野長瀬六郎・七郎(兄弟)が南朝の忠臣として三〇〇〇余騎の兵力をもって大塔宮護良親王を守護した様子を伝えている。大和野長瀬氏は、吉野郡野長瀬半助が『国民郷士記』に登場する。【人物】人物では、大正・昭和時代の日本画家野長瀬晩花(一八八九-一九六四)、昭和時代の詩人野長瀬正夫(一九〇六-八四)は奈良出身」とあり。
『姓氏家系大辞典 第3巻』(太田亮著 角川書店 1981)
p4615-4616「野長瀬 ノナガセ」資料を引用した比較的詳細な記述あり。
- 回答プロセス
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1 姓氏家系辞典を調べる。
『姓氏家系大辞典 第3巻』(回答資料)
『姓氏4000歴史伝説事典』(回答資料)
2 地名辞書を確認する。
『角川日本地名大辞典 29 奈良県』(「角川日本地名大辞典」編集委員会編 1990)
p865「のながせむら 野長瀬村〈大塔村〉」の項あり。
『日本歴史地名大系 31 和歌山県の地名』(一志茂樹[ほか]編集 平凡社 1983)
p618-619 「近露村 ちかつゆむら 現:中辺路町近露」
「戦国時代には野長瀬氏の末裔という横矢氏の勢力下に置かれた。(略)観音寺の台地から発見された五輪塔など五〇余は「太平記」巻五(大塔宮熊野落ちの事)にみえる野長瀬氏にかかわるものとされ、それを一カ所に集めて祀った野長瀬一族の墓所は室町時代のもので県指定史跡」とあり。
3 自館目録を〈後南朝〉で検索する。
『後南朝新史』(市川元雅[ほか]著 南正会 1967)
p69「第八章 後南朝第七代興福天皇(尊雅親王)」
「此処で親王を守護していたのは、楠正理(正秀の子)、その子行康、野長瀬盛高、(以下略)」とあり。
『南朝興亡史 後南朝と熊沢家略記』(早瀬晴夫著 近代文芸社 1996)
p35「尊雅王(親王)長禄元年(1457)十八歳の自天皇、賊荷殺害され神器奪われるも賊は川上村に入ったところで 南朝方に討たれ、神器は 小倉宮第四皇子尊雅親王(尊雅王)に渡り、同皇子即位して南天皇となる。(略)南天皇の母は、熊野の豪族平盛矩(野良ママ瀬庄司)の娘 横矢姫であります。(『足利天皇血統秘史』)尊雅親王たる南天皇は 五十一歳の小倉宮実仁親王(良泰親王)を父とし、生母は 野長瀬庄司平盛矩の娘 横矢姫である。(略)(『皇統正史』)」とあり。
『闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』(森茂暁著 角川書店 1997)
p199「第五章 長禄の変」
「南朝皇胤が挙兵したという北山の地が、現在のどこに相当するか明確でない。(略)この地域は現在、奈良県南端部東側と三重県南端部の西側との接する県境付近の山間一帯であるが、実はそこには県境に挟まれ、東側を北山川に縁取りされる形で、和歌山県(旧紀伊国)の飛地、東牟婁郡北山村がある。(略)記事にみえる北山とは、この和歌山県北山村を中心とした一帯とみるのが妥当であろう」とあり。
- 事前調査事項
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室町時代後南朝の武将である。
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 系譜.家史.皇室 (288 9版)
- 参考資料
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- 『姓氏4000歴史伝説事典』(志村有弘編 勉誠出版 2008) , ISBN 978-4-585-06061-1
- 『姓氏家系大辞典 第3巻』(太田亮著 角川書店 1981) , ISBN 4-04-030230-3
- キーワード
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- 野長瀬氏
- 姓氏-近畿地方
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000240908