レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2018年02月23日
- 登録日時
- 2018/03/08 10:51
- 更新日時
- 2018/03/22 10:55
- 管理番号
- 県立長野-17-151
- 質問
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解決
大塔合戦(1400)において、大井光矩が斡旋した和睦案の内容が知りたい。また、京都に戻った後の信濃国守護小笠原長秀がどうなったか知りたい。
- 回答
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和睦斡旋の内容については、不明。 多くの資料では、「和睦を斡旋した」という表現のみで、詳細については触れていない。
ただし、『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷 上』p.1004-1012 に大塔合戦についての項目があり、「この時に當り、丸子に在りたる大井光矩の居中調停によりて両軍の間に和議成立し(7)、寄手は兵を収めたから、危地を脱した長秀は入国の花々しさに似もやらで、悄然として京都に帰り去った」とある。この(7)の注に「媾(ママ)和の際、小笠原は更級郡四宮を村上に割譲したのであると更級郡誌に説いてある」の記述があった。
『更級郡誌』(更級郡役所 大正3年の復刻)千秋社 1998【N215/43】のp.97には「記録には明記なきも此調停は塩崎城即桑原四宮のちを村上氏に與ふるの契約なりしものの如く爾来村上氏にて領し来りたり然るに長秀の弟治部大輔政康信濃守護となり将軍足利義教の寵を受け勢力亦強大なるに及び村上満信の嗣子頼國に塩崎城の還附を要請し・・・(後略)」となっており、根拠となる文書の記載はなかった。
和睦後の小笠原長秀の動向については、『日本史総覧2』p.316 「室町幕府守護一覧」の信濃 によると、小笠原長秀の守護在任期間は応永6年(1399)-8年(1401)となっており、大塔合戦により京都へ戻って後も、守護職を解任されるまでに少し期間はあったようだ。小笠原長秀の次の守護である斯波義将の就任が応永8年(1401)2月となっている。
『新訂寛政重修諸家譜 第3』p.386の小笠原長秀の項に「・・・(前略)十九年二月十五日遁世し、信濃國伊那郡新野に居す。三十一年三月十五日卒す。年五十九。俊中正健大通寺と號す」とあった。
伊那郡新野は現在の阿南町であることから、『阿南町誌 上』を確認すると、P.514に「応永十九年二月十五日、長秀は京都において出家、『下条新野に下りて、四十七歳山居す』とあり(『笠家※大成』・『下条史』)後、深志郊外の渚城内に没下。応永三十二年」とある。
※この資料では『笠家大成』となっているが、『笠系大成』。
『笠系大成』を所収する『新編信濃史料叢書 第12巻』【N208/43/12】p.122-124の長秀の項には、「・・・(前略)応永十九年壬辰春、来于信州下条、二月十五日出家、時四十七歳 法諱俊中正捷、号大通寺、山居于伊那郡新野、称光院御宇源義量 同三十二年甲辰三月十五日、於渚城逝、時五十九歳、或作六十一歳」とある。
渚城は現在の松本市になるので、『松本市史 第2巻 歴史編1』松本市編・刊 1996【N233/106/2-1】p.639を見ると、「『豊前豊津(小倉)小笠原家譜』では、応永十九年に南信濃の下条にきて新野に居住し、応永三十二年(一四二五)五九歳で渚館(松本市)で死去したと伝えている」とあった。
- 回答プロセス
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1. 『長野県歴史人物大事典』神津良子編 郷土出版社 1989【N283/13】で「大井光矩」と「小笠原長秀」について概要を把握する。
2. 「大塔合戦」「大塔物語」などで、大井光矩の和睦斡旋についての記述を確認する。また、関係の研究書、郷土史家の論文を検索、確認していくが、内容について触れているものはなく、『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷 上』の注の「小笠原は更級郡四宮を村上に割譲したのであると更級郡誌に説いてある」の記述のみが、具体的なものであった。
3. 『更級郡誌』で当該部分を探す。根拠となる文書がないことがわかる。
4. 大井光矩は佐久地域を中心に活躍したことから、『佐久の人物と姓氏』菊池清人著 櫟 1996 【N288/159】を見たが、記述はなかった。
5. 小笠原長秀の守護職在任期間を調べる。、『日本史総覧2』「室町幕府守護一覧」で確認。
6. 小笠原長秀に関する資料を確認していく。『信濃小笠原氏』花岡康隆編著 戎光祥社 2016【N288/305】にも、記述はあるが、京都へ戻った後の動向についてはあまり触れられていない。『新訂寛政重修諸家譜』を見ると、伊那郡新野に戻って没していることがわかる。
7. 伊那郡新野は現在の阿南町にあたる。『阿南町誌 上』で確認する。山居ののち現在の松本で没したことになっている。記述の出典に『笠家大成』と『下条史』を挙げている。『笠家大成』は『笠系大成』のことと思われる。松本城主を長く務めた小笠原家の系図である『笠系大成』(『新編信濃史料叢書 第12巻』所収)を見ていく。いつ松本に移ったかの記述はない。
8. 渚城は現在の松本市であるため、『松本市史 第2巻 歴史編1』を見る。
<その他調査した資料>
・『信濃中世史考』小林計一郎著 吉川弘文館 1982【N209.4/56/】
・『下伊那郡史 第6巻』下伊那教育会 下伊那誌編纂会 1970 【N243/18/6】
・『足利一門守護発展史の研究』小川信著 吉川弘文館 1980 【210.4/オマ】
・『室町幕府守護制度の研究 上』佐藤進一 東京大学出版会 1967 【322.1/46/1】
・『武家時代の政治と文化』水野恭一郎著 創元社 1975 【210.1/229】
- 事前調査事項
- NDC
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- 中部地方 (215 8版)
- 系譜.家史.皇室 (288 8版)
- 参考資料
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信濃教育会 著 , 信濃教育会. 建武中興を中心としたる信濃勤王史攷 上巻 復刊. 信濃史学会, 1977.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000004385138-00 (【N209.4/23a/1】 p.1004-1012) -
今井尭 [ほか]編集 , 今井, 尭, 1932-2009. 日本史総覧 2 (古代 2.中世 1). 新人物往来社, 1984.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001652230-00 (【210.03/イタ/2】 p.316) -
高柳光寿/編 , 岡山泰四/ほか編 , 高柳‖光寿 , 岡山‖泰四. 新訂寛政重修諸家譜 第3. 続群書類従完成会, 1964.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I012784978-00 (【288.2/タミ/3】p.386) -
阿南町町誌編纂委員会/編 , 阿南町町誌編纂委員会 , 阿南町町誌編纂委員会. 阿南町誌 上巻. 阿南町, 1987-10.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I059270661-00 (【N243/141/1】p.514) -
信濃史料刊行会. 新編信濃史料叢書 第12巻. 信濃史料刊行会, 1975.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001228628-00 (【N208/43/12】p.122-124) -
松本市 編 , 松本市. 松本市史 第2巻 歴史編 1. 松本市, 1996.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002542726-00 (【N233/106/2-1】p.639)
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信濃教育会 著 , 信濃教育会. 建武中興を中心としたる信濃勤王史攷 上巻 復刊. 信濃史学会, 1977.
- キーワード
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- 大塔合戦
- 大塔物語
- 大井光矩
- 小笠原長秀
- 守護
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000232275