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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000215724
提供館
(Library)
福井県文書館 (9000002)管理番号
(Control number)
2017-006
事例作成日
(Creation date)
登録日時
(Registration date)
2017年05月07日 17時24分更新日時
(Last update)
2017年05月25日 12時52分
質問
(Question)
福井市街西南の足羽山(江戸時代では愛宕山)にあった料亭「晴嵐亭」「五嶽楼」について知りたい。
回答
(Answer)
 まず『福井市史』通史編の成果をもとに、足羽山の料亭のようすを知ることができる資料を確認していこう。

(1)『福井市史』通史編2における足羽山料亭の記述
 「愛宕坂を代表する料亭は、市太夫・二右衛門・二兵衛・一右衛門の四家であった。市太夫家は藩の御用を勤め、晴嵐亭と称した。二右衛門家は結城引越しと伝え、はじめは清和楼と称した。幕末・維新期に松平家に愛用された料亭で、楼上からの展望は絶景で城下を一望するのみならず、白山・芳野(吉野岳)・白椿の三嶽が遠望でき、慶永はこの三嶽に自らの号「春嶽」と茂昭の号「巽嶽」の二嶽を加えて清和楼を五嶽楼と改称した。市太夫は。「松玄院門前 山市太夫」と称し、藩の台所御用向が出精であるとして二人扶持が給付され、二右衛門も「山の山田二右衛門」として御内用達助役に任じられ、役職にあった期間は二人扶持が給された」(典拠は「福井城下扶持人姓名書上」『福井市史』資料編7、松原信之執筆『福井市史』通史編2)

 文末の「福井城下扶持人姓名書上」は、松平文庫(福井県立図書館保管)の「諸役人并町在御扶持人姓名」全13冊中の1冊「御国町方」にあたり、上記の記述の後段、「市太夫」「二右衛門」が、それぞれ天保9年、安政6年以降福井藩から扶持米を給付されていたことの典拠である。
 福井県文書館・図書館・ふるさと文学館デジタルアーカイブの画像  http://www.archives.pref.fukui.jp/archive/detail.do?id=321350&smode=1 )。

 それでは前段の記述は、なにに基づいてわかるのだろうか。
  
(2)『福井名勝記』掲載の3つの漢文
 明治期以降に福井県内で刊行された名所案内は、複数確認されるが、とりわけ『福井名勝記』は刊行年も1893年(明治26)と古く、足羽山の料亭について、つぎのように記述されている。
 「羽山ノ麓ニハ割烹店アリ、其最モ好風景ナル者ハ五岳楼・晴嵐亭ナリ、其他客席広カラスト雖モはりま・風琴亭ノ如キハ何レモ小酌ニ宜シ、余一日登楼ノ際、水態含青楼記及晴嵐亭記ノ三章ヲ得タレハ載セテ以テ風景ノ参照トス」(p.45)
 これ以降に掲載されている3点の漢文から以下のようなことがわかる。

・「水態含青楼記」
  1878年(明治11)5月の日付があり、筆者は松平春嶽。春嶽は前年5月に茂昭とともに帰福した際に「足羽山山田仁右衛門宅」(五嶽楼)に投宿した(後述『越前松平家家譜 慶永4』)。その際楼名を請われ、蘇頲(逖)の詩の一節にちなんで「水態含青之楼」(五嶽楼ではなく)と命名したことが記されている。

・「五嶽楼記」
  1882年(明治15)の年紀。筆者は清国の文人・書家である王治本。楼から並び立ってみえる「椿獄、白嶽、芳嶽」と、楼中にある「春嶽」「巽嶽」二侯の題額とをあわせて、「五嶽楼」の名の所以を説明している。王治本は明治10年に春嶽と交流し、その後五嶽楼を訪ねており、このころ(明治15年)には、すでに「五嶽楼」の呼称が浸透していたことがわかる。

・「晴嵐亭記」
 1891年(明治24)9月、筆者は福井藩士で藩校明道館教授を務めた富田鴎波(厚積)。足羽山で比較的古くから料亭を営んでいた4戸として「市太」「市右」「二兵」「二右」が挙げられ、結城秀康に従って移住したとされる。「市太」は断崖を臨んで建っていたことから「晴嵐」と呼ばれ、藩の儒者前田雲洞が命名したとしている。

(3)明治末期の新聞記者による『訪問記』 
 1911年(明治44)1月13日附けの北日本新聞の記者による五嶽楼訪問記が掲載(p.80-88)されており、女将から「横軸の絹地に墨痕鮮かに五嶽楼と記され」た巻物を見せてもらっている。この巻物には1877年(明治10)5月の日付で詞書が付されており、当初「清和」とされた楼名を、春嶽自らが「白岳あり芳岳椿岳こゝに宿する春岳あり巽岳あり併せて五岳」としたとされている。

 このように、前述の明治11年に春嶽が「水態含青之楼」と名付けたとする漢文と、その前年、明治10年に春嶽自らが「五嶽楼」と命名したとする記録の双方があり、「五嶽楼」の命名について不明な点が残る。
 しかしながら、楼名として明治15年頃の段階から広く使われていたのは「五嶽楼」の名称であり、明治15年1月の福井新聞にも13日(2面)・18日(2面)に吉田足羽両郡の勧業関連の有志懇親会が五嶽楼を会場に開かれることが報じられていた。
 
(4)幕末・明治期の一次資料にみられる「市太夫」「二右衛門」「市右衛門」
 上記とは別に、足羽山の料亭のようすは、以下の資料で知ることができる。現在のところもっとも古い記述は、1821年(文政4)のものである。

・「山口家譜」『福井市史』資料編7  福井城下米町商人である山口家の記録
 「市太夫」「二右衛門」「市右衛門」の料亭は、商人による金毘羅講の会場としても使われ、藩御用金等に応じた商人への饗応でも使われた。また大名・幕府領役人等に向けた仕出しや出張営業も行っていたことがわかる。

 文政4年12月3日 「横坂市大夫方ニ而、金毘羅講段々心配ニ而札嵩相増候ニ付御料理被下」
 文政6年12月5日 「(中略)若殿様初御目見御祝事御首尾能被為済(中略)夫ゟ横坂市大夫方ニ而御料理被下候」
 文政11年8月29日 「御評定所御用之趣(中略)山口与兵衛/御扶持方弐人扶持御増都合六人扶持ニ被成下(中略)御頼金千弐百両(中略)即日山市太夫方ニ而御料理被下候」
 天保11年5月4日 「加州宰相様御通行ニ付、別家八十八方下宿被仰付則前田図書様御昼相勤ル、外ニ下宿有之、上下八十弐人、尤賄御上ゟ山市大夫引受御宿のミ相勤可申事」
 天保12年3月 「本保役人御札所御内用ニ付、福井止宿ニ付訳合在之、手前二足庵止宿御頼ニ付(中略)、無拠御札所へ御貸申上、格別御馳走御取扱可被成義ニ付、幸右衛門昼夜浜町へ引越居料理人山市右衛門諸道具共格別心配いたし、日々取替三月十日ゟ十三日迄逗留、内御泉水へも被参候」

・加藤竹雄家の日記 (福井県文書館ホームページで画像閲覧が可能。請求番号A0052-01413~01427)
 翻刻pdf(草稿版)は以下のURLにあり(01415-17,20は、水損のため翻刻できていない)。
  http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/Darchives/DAindex.htm
 吉田郡二日市村は、府中本多家の知行所(府中領)。加藤家は当村の庄屋であり江戸後期には府中領の大庄屋格。
 「府中講」でたびたび「二右衛門」が会所となっていた。

 1857年(安政4)3月1日「御上御講吉川甚兵衛差支ニ付山仁右衛門方ニ而会所」
  64年(元治元)11月7日「府講山仁右衛門牧安名代ニ遣ス、谷安ニ泊り」
  65年(慶応元)4月24日「府中御講山仁右衛門方ニおゐて会合」
  68年(明治元)10月25日「府中講満会ニ付、山二右衛門方へ行、夕方米善へ帰り、同所ニ而夕飯致し泊り」

・鈴木主税「御用日記」宮崎長円家文書 請求番号A0180-00001 福井県文書館蔵
 福井県文書館・図書館・ふるさと文学館デジタルアーカイブ画像  http://www.archives.pref.fukui.jp/archive/detail.do?id=332461&smode=1
 翻刻pdf(草稿版)は、 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/08/m-exhbt/20141112AM/1847goyonikki-fulltxt.pdf
 1847年(弘化4)2月26日、松平慶永が、7か寺の菩提寺の住職方を招いた際に、「但、山市太夫仕出し膳器ハ御台ゟ出ル、御夜食膳朱碗」として、「市太夫」(のちの晴嵐亭)が仕出しを行っていたことがわかる。

・「種池村行事留」」『福井市史』資料編9 福井城下近郊の庄屋坪川武兵衛の日記
 講の会場に使われた例。 
 1865年(慶応元)4月21日「一当廿三日・廿四日御講相勤り候旨、庄屋五郎右衛門方ゟ歩行番次郎左衛門内触申候、則廿三日ニ山二右衛門方江出席申候」

・「家譜」越葵文庫(福井市立郷土歴史博物館寄託)福井県文書館資料叢書『越前松平家家譜 慶永4』
 福井県文書館資料叢書のpdfはこちら。 http://www.library-archives.pref.fukui.jp/?page_id=467  
 1877年(明治10)5月20日~6月6日 「足羽山山田仁右衛門へ御投宿」(春嶽は茂昭とともに帰福)
          6月3日 「午後五時頃ゟ清嵐亭、石川県令桐山純孝殿御招ニ付、両公被為入酒肴賜之」
回答プロセス
(Answering process)
・『福井市史』通史編、『稿本福井市史』等を検索
・NDLサーチで「晴嵐亭」「五岳楼」「五嶽楼」を検索
 『福井名勝記』1893年がヒット。明治期以降の福井県下刊行の名所案内で、もっとも記述が充実している。
 『訪問記』1911年では、上記に掲載された春嶽の漢文とは別の1877年(明治10)の資料を紹介している。
・Googoleブックスで「晴嵐亭 福井」「五嶽楼」などを検索
 『福井案内記』『定本高濱虚子全集』14などがヒット。
・福井県文書館資料叢書『越前松平家家譜 慶永』1~5を検索
 1877年5月に松平春嶽が福井に戻った際、山田仁右衛門宅に宿泊したことがわかる。 
・福井城下町人や近郷の百姓の農民の記録「橘宗賢伝来年中日録」「種井村行事留」(『福井市史』資料編9)、「橘宗賢年中日録」「山口家譜」(『福井市史』資料編7)を検索。1823年(文政6)から65年(慶応元)にかけて関連記述があることがわかった。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC 
参考資料
(Reference materials)
横山順 著 , 横山, 順. 福井名勝記. 品川太右衛門, 1893.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000426466-00
福井市 編 , 福井市. 福井市史 通史編 2 (近世). 福井市, 2008.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009422740-00
福井市 編 , 福井市. 福井市史 資料編 7 (近世 5(町方)). 福井市, 2002.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000003650315-00
福井市. 福井市史 資料編 9 (近世 7 学問と文化). 福井市, 1994.
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002354595-00
中川磐峰. 訪問録. p. http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898618 (p.80-88)
福井県文書館 編 , 福井県文書館. 越前松平家家譜 : 慶永 4. 福井県文書館, 2010. (福井県文書館資料叢書 ; 7)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000011172988-00
キーワード
(Keywords)
足羽山
愛宕山
五嶽楼
晴嵐亭
料亭
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
郷土 地名
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000215724解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
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