・『岡山の内田百閒』(資料①)では、昭和17年11月に内田百間が岡山に帰郷した経緯を次のように紹介している。
「大正の中頃以降、あれこれ理由をつけて岡山に帰ろうとしなかった百閒も、
木畑先生が亡くなったと聞いて、岡山へとんぼ帰りする」
「百閒が岡山城の天守閣を見たのはこれが最後であった」
・『新輯内田百閒全集 第23巻』(資料②)の「東京燒盡」(昭和19年11月~20年8月22日までの日録)では、
岡山空襲後の郷里・岡山に対する心情が語られている。
「些とも顧ない郷里ではあるが敵に燒き拂はれたと云ふ事になれば人竝以上の感慨もある。
しかしどうせしよつちゆう行つたり來たりする所でもないとすれば記憶の中の岡山は
亞米利加もB29も燒く事は出來ないのだから、自分の岡山は燒かれた後も前も同じ事
であるかも知れない」
・『月刊をかやま』(資料③)の「京橋の霜」(昭和21年5月掲載)の中でも、「私が岡山と呼んでいる所はただ記憶の町」と表現している。
・『山陽新聞』(資料④)の高橋義孝氏との対談(昭和41年)では、岡山に帰らない理由が次のように語られている。
(対談会場は、「東京・丸ノ内のステーション・ホテル」)
「なぜ僕が、岡山に歸らぬかとおつしやるけど、それは歸るわけにはいかないんだ。
僕は岡山が、大切で大切でしやうがないのです。そこへいま歸れば、いまの言葉で
いふイメージですか、それが全部くづれちやふでせう。それをくづさないため、
岡山には近づかないやうにしてるんですわ。(中略)新しい岡山を見るのもいいが、
見たとたんに古い故郷がなくなつてしまふから。(中略)(記者に向かつて)だから、
岡山には僕は行かないよ、といつといて下さい。」
そのほか、九州行きの電車旅行の途中、岡山駅に停車した際の記録として、次のものが挙げられる。
・『新輯内田百間全集 第14巻』(資料⑤)の「鹿兒島阿房列車」(昭和26年6月30日~7月7日)での岡山駅停車時の様子
「鐵橋を渡つたら、ぢきに岡山驛である。ちつとも歸つて行かない郷里ではあるが、郷里の土はなつかしい。
停車の間、歩廊に出てその土を蹈み、改札口の柵のこちらから驛前の様子を見たが、昔の古里の姿はなかつた」
・『新輯内田百間全集 第15巻』(資料⑥)の「春光山陽特別阿房列車」(昭和28年3月15日)での岡山駅停車時の様子
「いつでも岡山を通る時は、車外へ出て歩廊を歩いて見るのだが、今日は混雑しさうだから、
よさうと思ふ。(中略)いろんな人が來てゐて、その中に知つた顔があると面倒である。」
また、「列車寝臺の猿」(昭和30年4月9~17日)では、過去の帰省状況を振り返っている。
「 岡山は私の生れ故郷でなつかしい。しかしちつとも省る事なしに何十年か過ぎた。
今思ひ出す一番の最近は、大正十二年の關東大地震の後一二年経つた時と、もつと
近いのは今度の戦争の直前とであるが、しかしその時は岡山に二時間餘りしかゐな
かつた。中學の時教はつた大事な先生がなくなられたので、お別れに行つて、御靈前
にお辭儀をしただけですぐに東京へ歸つて來た。驛から人力車に乘つて行き、門前に
待たせたその俥で驛へ戻る行き歸りの道筋だけの岡山を見たが、それももう何十年
以前の事になつた。」
「岡山で生れて、岡山で育つた私の子供の時からの記憶はそつくり殘つてゐる。空襲の
劫火も私の記憶を燒く事は出來なかつた。その私が今の變つた岡山を見れば、混亂が
起こるかも知れない。私に取つては、今の現實の岡山よりも、記憶に殘る古里の方が
大事である。見ない方がいいかも知れない。歸つて行かない方が、見殘した遠い夢の
尾を斷ち切らずに濟むだらう」
・『新輯内田百閒全集 第26巻』(資料⑦)の「戦後日記」でも、昭和30年4月10日「岡山にて眞さんに會ふ、十分停車也。」とだけ記されている。
・『増補版戀文・戀日記』(資料⑧)の「父・内田百閒」によれば、妻清子が亡くなった際に百閒が残した「岡山の墓に自分も這入るのだから、お骨を持って行きなさい」という言葉にふれ、岡山市国富の瓶井の丘の上に遺骨を埋葬していることが紹介されている。
・『百鬼園寫眞帖』(資料⑨)の「ふるさと、まぼろし」では、百閒の同級生・岡崎真一郎氏の言葉を次のように紹介する。
「栄さんいうのは、ありゃ我儘な男でな。岡山が恋しゅうてならんくせに岡山が嫌いなんじゃ。
それで死ぬまで戻らなんだ。六高の何十年祭の時に、いっぺん講演に戻れいうてやかましゅう
すすめたら、そんなら帰のうか、いうて、いったんはその気になっとったんじゃが、とうとうそ
れもようせなんだ」