1『田辺市史 第1巻 通史編Ⅰ』(田辺市史編さん委員会/編集 田辺市 2003年)第三章第三節「種松長者の暮らしぶり」(p263-264)には以下のとおりの記述がある。
「平安時代に編さんされた『和名抄』という史料によると、当時の紀伊国の総水田面積は七一九八町歩余であったから、彼がどれほどの豪民であろうとも、一二万町もの苗代を設定することは不可能であり、この物語自体は歴史的事実ではあり得ない。しかし、このころに土地を集積することによって豪壮な 生活をする地方豪民が各地に出現していたからこそ、このような物語が生まれたのであろう。そして、都で著された物語の舞台として紀伊国牟婁郡が選ばれ、主人公が紀伊国牟婁郡の豪民として設定されたのである。(中略)律令制度に基づく宮中の部署をそのまま種松長者の屋敷に移し替えたものである。律令制度が弛緩し、宮中の諸制度が順調に機能しなくなってきた平安中期になると、逆に貴族たちは、諸制度が順調に機能する空想の御殿を種松長者の屋敷に求めたのであろう。もちろん、古代国家の変貌にともなって、集積した土地からの冨を基盤として、かつては考えられないような暮らしぶりをする 地方豪民が各地に出現したことも、彼ら貴族の空想を豊かにした一因であろう。」
2『田辺市史』第1巻の巻末に参考文献目録が掲載されているが、神無備の種松長者について掲載されている文献はなかった。
3『和歌山県史 人物』(和歌山県史編さん委員会編集 和歌山県発行)のp131-132「神南備種松」の項には、伝承の人物として「宇津保物語」を参考資料とした記述が掲載されている。