以下の資料をご案内しました。
・『自動車と人間の百年史』(新潮社,1987年)
「「日米混血」の自動車組立と国産第一号自動車タクリー号」の項に
“ (前略)明治四十年四月、ついに国産ガソリン自動車第一号が完成した。(中略)内山技師がつくった
この自動車こそ、後世にまで伝えられたタクリー号である。 ” (p.27-28)
との記述があります。
・『自動車に生きた男たち』(新潮社,1986年)
「ガソリン車第一号」「タクリー号の由来」それぞれの項に
“ (前略)ガソリン自動車の国産第一号は、それより三年後の一九〇七年(明治四十年)に、前にも述べた
東京・銀座の双輪商会の吉田真太郎と内山駒之助が作ったタクリー号だ、とされている。 ” (p.21-22)
“ (前略)この車がガソリン自動車国産第一号だ、という説については疑問や反論もある。
(中略)自動車工業振興会の小磯勝直・資料室長は「関係者の間で話し合った結果、タクリー号が
ガソリン車の国産第一号ということで一致した。現在ではこれが定説になっている」と述べている。 ” (p.22-23)
との記述があります。
・『日本自動車工業史座談会記録集(自動車史科シリーズ(1))』(自動車振興会,1973年)
「自動車製造の芽生え」の項に
“ 永井「文献によると、明治40年に吉田氏が作ったタクリー号は、クラッチとタイヤを除いて全部国産である、
となっていますが……。」
原田「わたくしは39年から警視庁にいました。その頃吉田氏の車が本当の国産であるという記憶がありません。」
豊川「むずかしいものは輸入して、日本の部品も使って作るということは考えられます。」 ” (p.10)
との記述があります。
・『日本自動車工業史稿(一)』(自動車工業会,1965年)
「自動車製造の芽ばえ」の項に
“ (前略)ついに内山技師が目的とする国産ガソリン自動車を完成したのは、一年数ヵ月を経た
明治四〇年四月のことである。(中略)全部で一〇台のガソリン自動車を製造したのであるが
(中略)後年いつとはなく「タクリー号」と巷で呼ばれるようになった。 ” (p.188-195)
との記述があります。
・『自動車三十年史 復刻版』(萬歳パブリシティ,2000年/初版発行;山水社,1941年)
「自動車工業事始」の項に
“ (前略)内山氏等は日夜苦心の結果、國産車第一號を完成したのは明治四十年の春のことであった。
(中略)ガタリガタリ走るといふので、タクリー車などといふ蔑稱を以って迎へ(後略) ” (p.34-35)
との記述があります。
・『自動車日本史 上巻』(自研社,1955年)
「有栖川宮が国産乗用車第一号」の項に
“ 国産乗用自動車は此のタクリーが最初であるが、タイヤ、バッテリー、マグネット、プラグ等、
我が国で出来ないものは輸入品を用いた。 ” (p.197)
との記述があります。
・『日本自動車史』(自研社,1942年)
「あゝタクリ號」の項に
“ 内山氏の作った此の自動車こそ、異名をもって口の端に傳へられることゝなったタクリー號である。 ” (p.181)
との記述があります。