レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20130817
- 登録日時
- 2014/02/28 00:30
- 更新日時
- 2014/03/27 11:14
- 管理番号
- 0030001399
- 質問
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解決
奥田三角関係の資料と、三角亭址と奥田三角生家と奥田蘭汀墓所について知りたい
- 回答
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1)奥田三角に関する資料について
奥田三角に関する資料は、以下のものがありました。
三熊花顚著 伴蒿蹊補 中野三敏校注『近世畸人伝 続』(中央公論新社 2006)p.101~109 ※伝記
浅野松洞著『三重先賢伝 復刻』(東洋書院 1981)p.49 ※伝記
梅原三千執筆 西田重嗣執筆『津市史 第3巻』(津市役所 1961)p.663~670 ※伝記
津市教育会著『津市文教史要』(津市教育会 1938)p.44~52 ※伝記・肖像画あり
出丸恒雄編『松阪の文学 2』(三重県立松阪高等学校 1965)p.69~72 ※伝記・著作など
角田夏夫著『三角亭物語』(北方文化博物館 1985)p.5~24 ※伝記・三角亭について分かりやすく書いたもの
松阪市史編さん委員会編著『松阪市史 第7巻』(蒼人社 1980) p.188~239※三角集翻刻 p.591~592 ※三角集解題
2)三角亭址・奥田三角生家・奥田蘭汀墓所について
三角亭址については、『三角亭物語』(北方文化博物館 1985)p.226によると、「伊勢の三角亭は江戸時代に消滅している。」と書かれていました。関連した情報として、『松阪・多気今昔写真帖』(郷土出版社 2009)p.87に昭和28年の松阪市豊原町の奥田三角邸の写真がありますが、門と家の一部しか映っていませんでした。奥田三角邸の建物は、現在取り壊されて残っていないようです。奥田三角生家に関する記述は、『津市史 第3巻』(津市役所 1961)p.633に「奥田土享の先祖小四郎晴重は、後に越前(福井県)の豊原を領し、九代の孫清十郎忠重になって一族を率いて櫛田川の辺りに移り、そこを開拓して豊原と呼んだ。」とありますが、それ以上に詳しい記述を見つけることができませんでした。奥田蘭汀墓所については、出丸恒雄編『松阪の文学 2』(三重県立松阪高等学校 1965)p.72に、墓に刻まれた文が書かれています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 内容種別
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000149968