レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2009/11/08
- 登録日時
- 2013/06/07 00:30
- 更新日時
- 2013/07/12 10:38
- 管理番号
- 6000000941
- 質問
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未解決
畠山義春の1587年から、99歳で死亡した1643年までの間の大阪での動向についてわかる本はあるか。畠山義春と上条政繁とが同一人物であれば、上条の名での動向でもよい。
- 回答
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畠山義春・上条政繁の大阪での動向がわかる資料は発見できず。『新修豊中市史 第1巻 通史1』などに、所領についての記載はあり。なお畠山義春と上条政繁は同一人物説と別人説があり。
- 回答プロセス
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当市所蔵の人名事典や豊中市史、仕えたとされる上杉景勝・直江兼継・豊臣秀吉・徳川家康に関する資料、所領地があったといわれる各市史を調査。また大阪府立図書館にも調査を依頼する。
『新修豊中市史 第1巻 通史1』(豊中市)には、畠山義春の豊臣政権下での所領地についての記載があり。河内国高安郡で500石のほか、原田村(豊中市)で300石、河内国交野郡で700石の加増とのこと。『八尾市史』(八尾市役所)『交野市史』(交野市)を調べるが、畠山義春についての言及はない。
『戦国人名辞典』(吉川弘文館)には「上条政繁」の名、『新潮日本人名辞典』(新潮社)には「畠山義春」の名で、河内高安郡に500石の知行を領したとの記述があり。
また『日本市諸家系図人名辞典』(講談社)『戦国大名閨閥事典 第1巻』(新人物往来社)には畠山義春について、『直江兼続ガイドブック 別冊歴史読本』(新人物往来社)には上条政繁についての記載があるが、大阪での動向については言及なし。当市未所蔵の『直江兼続大事典』『上杉景勝のすべて』『上杉謙信大事典』(いずれも新人物往来社)『直江兼継 家康を挑発した智謀の将』(新紀元社)『英傑の日本史』(角川学芸出版)にも、上条政繁についての記載はあるが、大阪での動向については言及がなかった。
なお大阪府立図書館の調査によると、畠山義春と上条政繁が同一人物かどうかについて異論もあり、『上越市史』では章によって同一人物としている箇所と別人としている箇所があるとのこと。別人説では義春は畠山義隆の子で、上条政繁の養子になったとされており、最初に河内国高安郡を与えられたのが上条政繁で、摂津国原田村・交野郡私部村を与えられたのがその養子である義春とされている。
その後、近畿大学中央図書館から、東京大学史料編纂所の大日本史料総合データベースhttp://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/db.html にある『寛永諸家系図伝』中の記事をご指摘いただいた。「是より先、上杉景勝の臣畠山義春、出奔して秀吉に仕ふ、是日、秀吉、之に河内の地を宛行ふ、」(『寛永諸家系図伝』)
- 事前調査事項
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畠山義春は能登守護の次男として生まれ、上杉謙信の養子になるが、上杉一門の上条家に養子になり上条政繁と名乗る。しかし、1587年に家老直江山城守(兼続)とけんかをして、京都へ逃げ、その後豊臣秀吉から1587年(天正15年)10月に河内国高安郡に500石、1590年(天正18年)9月に摂津国豊嶋郡(今の豊中市か?)に300石、1593年(文禄2年)11月に700石をもらっている。
1601年に徳川家康とあい、「畠山家」を名乗る。
1601年に片桐と一緒に大阪城を出た。
1614年に大阪の陣で上杉謙信公の戦略を講義
1630年代に2男は上杉家を名乗り徳川家高家、3男は畠山家を名乗り、徳川家高家。 長男の景広は体が弱く、その長男は立花家に引き取られ、1655年に上杉家高家。
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 個人伝記 (289 9版)
- 参考資料
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- 『日本史諸家系図人名辞典』小和田 哲男/監修(講談社)
- 『戦国大名閨閥事典 第1巻』小和田 哲男/編(新人物往来社)
- 『寛政重修諸家譜 第2』(続群書類従完成会)
- 『直江兼続ガイドブック』(新人物往来社)
- 『戦国人名辞典』戦国人名辞典編集委員会/編(吉川弘文館)
- 『新潮日本人名辞典』新潮社辞典編集部/編集(新潮社)
- 『新修豊中市史 第1巻』豊中市史編さん委員会/編集(豊中市)
- キーワード
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- 畠山義春(ハタケヤマヨシハル)
- 上条政繁(ジョウジョウマサシゲ)
- 歴史
- 人物
- 原田村(ハラダムラ)
- 豊臣政権
- 所領
- 桃山時代
- 照会先
- 寄与者
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- 大阪府立図書館
- 近畿大学中央図書館
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000132138