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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000098104
提供館
(Library)
滋賀県立図書館 (2110049)管理番号
(Control number)
滋2011-0764
事例作成日
(Creation date)
2012/11/30登録日時
(Registration date)
2011年12月16日 02時02分更新日時
(Last update)
2013年03月11日 00時30分
質問
(Question)
近江にあった永原(ながはら)城の所在地などのほか、その歴史を知りたい。
回答
(Answer)
『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「野洲郡野洲町永原」、創築年代は「室町時代中期」、創建者は「永原氏」、形式は「平城」です。城の歴史は「永原城は、一般に永原氏代々の居城と伝えられてきたところで、上永原城跡の東六〇〇mの所に位置しており、堀の多くは埋め立てられ、竹林などとして残されている。『野洲郡史』掲載の「中島重行蔵図」によると、城は本丸・二の丸が一体で土塁と堀に囲まれ、その外に三の丸がある。城主の永原氏はその出自が不明確であるが、永徳(一三八一-八四)・明徳(一三九〇-九四)の合戦で軍功をたてた永原大炊助宗行の時、当野洲郡内で十八郷の増地を受けた。以降、武威ますます高まり、文明十二年(一四八〇)には越前守重秀が当城周辺の小堤・入日岡・田中江に城を構えて諸合戦に備え、その後も筑前守重頼の時には、栗太郡の勝部や甲賀郡石部からの道筋に当たる甲賀坂に城・砦を備えて、東山道の草津口や浜街道の木浜・赤野井にも守りを立て、広く野洲・栗太と甲賀の一部までもその勢力は及んでいた。しかし、永禄十一年(一五六八)の信長入江には六角氏と命運を共にして没落、元亀元年(一五七〇)には佐久間信盛が当城に在城した。天正元年(一五七三)、浪々の身にあった永原飛?助実治が信長から千石を得て再び城主となった。しかし実治は山崎の合戦で戦死したため、翌年には深尾清十郎が城主となり、文禄年間(一五九二-九六)には廃城となって草津市の芦浦観音寺の預かるところとなった。徳川時代になってからは、将軍上洛の宿舎として近江国内では柏原御殿・伊庭御殿と共に当地にも城跡を利用して永原御殿が築かれたが、貞享三年(一六八六)、幕府の命によって廃城となった。」とあります。なお、野洲郡野洲町永原は現在野洲市永原になっています。
回答プロセス
(Answering process)
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
日本の建築  (521 8版)
参考資料
(Reference materials)
1 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 S-5200- 80 p.270

2 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 S-0300- 84 p.537

3 滋賀県中世城郭分布調査 3 旧野洲・栗太郡の城 滋賀県教育委員会∥編 滋賀総合研究所∥編 滋賀県教育委員会 1985年 5B-5200-3

4 近江輿地志略 全 寒川辰清∥著 宇野健一∥改訂校註 弘文堂書店 1976年 S-2900-734

5 野洲郡史 上 橋川正∥編 寺田精文堂 1972年 S-2120-1
キーワード
(Keywords)
永原城
城跡
永原氏
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000098104解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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