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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000097314
提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)管理番号
(Control number)
埼久-2011-063
事例作成日
(Creation date)
2011年08月19日登録日時
(Registration date)
2011年11月30日 15時39分更新日時
(Last update)
2012年02月15日 16時40分
質問
(Question)
徳川秀忠が関ヶ原の合戦に参加しようとして中山道を通ったというが、そのルートと何故遅れたのかを知りたい。
回答
(Answer)
関連する記述のある以下の資料を紹介する。

『国史大辞典 10 と-にそ』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989)
p295「徳川秀忠」の項によると、「この時家康は東海道を、秀忠は東山道をとったが、同年八月石田方の真田昌幸に進軍を妨害され、昌幸を信濃上田城に攻めた。そのため時間を空費し、関ヶ原にて東西両軍の会戦迫るとの飛報を受け関ヶ原に向かうも時すでに遅くついに合戦に参加することができなかった。」との記述あり。

『日本戦史 〔1〕 関原役』(参謀本部編 村田書店 1977)
p115「第四篇 両軍緒戦」「東軍ハ先ツ諸客将ヲシテ東海道ヲ上ラシメ又秀忠ヲ中山道ヨリ上ラシメ」とあり東海道・中山道双方から攻める予定であったことについての記述あり。
p317-322「第七篇 本戦前後東西各地ノ緒戦 第八章上田」に、徳川秀忠と真田昌幸の戦いについて経過あり。日付で順に追えば、経路を読み取ることはできる。

『決戦関ケ原-戦国のもっとも長い日』(学習研究社 2000)
p106-110「徳川秀忠-後方平定任務であった真田攻め」(藤井譲治:文)
p108-110に関ヶ原の合戦に向かう頃の事情あり。
p110に秀忠の遅参についての筆者の見解あり。
p107地図「家康・秀忠の動きと東西主要武将の本拠」に「秀忠のルート」として地図に進軍経路あり。
p108に文章で進軍の日程の記述あり。
p186-189「二軍並進策で露呈徳川軍団に内包した組織上の欠陥」(大山格:文)のp188-189にも秀忠遅参の事情あり。

『関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(笠谷和比古著 講談社 1994)
p116-126 「3 徳川秀忠隊の誤算」に遅参の経緯が書かれている。
 「旗本の侍共ばかり」からなる防御的な部隊であったこと、川留めにより家康からの使者が遅れたこと、真田昌幸の挑発に乗り日数を費やしたことがあげられている。
経路図はないが文中で経路を追うことは可能。
8/24宇都宮出発 8/28松井田 9/1軽井沢 9/2小諸(上田城) 9/10小諸出発 9/13下諏訪(塩尻より木曽路に入る) 9/14信州本山

『歴史読本 1987年7月号』(新人物往来社 1987.7)
p92-97「徳川秀忠 青田刈りの術 上田城の攻防」(岩井護著)に経路図はないが、文中で追うことは可能。
8/24宇都宮出発 9/1軽井沢 9/2小諸城 9/8西上の途につく 9/17妻籠 9/18落合 9/19草津(近江)
また、日数がかかったことについては、軍資金調達のため一時期参謀が抜けたことや、真田昌幸の時間稼ぎに載ったこと等が書かれている。

『月刊歴史と旅 1999年11月号』(秋田書店 1999.11)
p42-49「家康の子らの関ヶ原」(笠谷和比古著)
p46文中に8月28日付書状の引用あり「去る廿四日、彼地(宇都宮)を罷り立ち、今廿八日、上州松井田に到り着陣せしめ候」
また、「関ヶ原合戦で秀忠隊の遅参の因をなすこととなった真田との合戦は、秀忠の場当たり的な暴走ではなくて、東軍の間で了解されていた当初からの使命であった」とある。

『関ケ原合戦と近世の国制』(笠谷和比古著 思文閣出版 2000)
p65-69「5 秀忠部隊の軍事展開と家康の出陣」文中に、簡略な経路の説明あり。
また、秀忠部隊は、当初から「中・長期的な性格を有していた」と論じており、「川留めで使者の到着が遅れたなどということが語られているが、(中略)秀忠部隊の関ヶ原合戦への遅参を、不可抗力として説明するための潤色という印象を拭いえない」とある。

『関ケ原合戦四百年の謎』(笠谷和比古著 新人物往来社 2000)
p154-163 秀忠の部隊について記述あり。
文中、大まかな経路を追うことは可能。
また、「信州上田城の攻撃に時日を費やして、ついに関ヶ原の合戦に参加することができなかった」(p154)、「小山の評定で合意された、秀忠部隊の上方へ向けての侵攻方針は、決して急速の西上ではなく、(中略)中・長期的な性格を有していた」(p158)とあり、秀忠部隊の関ヶ原不参加について解説している。
なお、「是等の諸事実からして、秀忠隊の勢力温存説は、成り立つ余地のないものと判断せざるを得ない」とあることから、他に〈勢力温存説〉も存在するらしい。

『関ケ原から大坂の陣へ』(小和田哲男著 新人物往来社 1999)
p121 図「関ヶ原の戦い前後の関東・甲信越の動き」に秀忠の経路の概略あり。
「秀忠が中山道をはずれ、小諸方面に向かったということは、すでにその時点で秀忠が、上田城の真田昌幸・幸村父子を攻めようと決意していたことを物語っている」(p120)、「10日、秀忠はしかたなく上田城を落とすことをあきらめ、上田城攻めを中止し、美濃へ向かうことになったのである」(p123)とあり、〈遅参〉という受け止め方はしていない。

『図説関ケ原の合戦』(白水正編 岐阜新聞社 2000)
p24-25「徳川秀忠の進軍」文中に大まかな経路あり。
遅参の理由については記述なし。

『徳川三代のトラウマ(宝島社新書)』(瀬戸環、中野元著 宝島社 2000)
p124-128「関ヶ原での遅刻は凡将の証明」に関ヶ原に遅参したという事実の記述あり。進軍経路はなし。
回答プロセス
(Answering process)
調査済み資料
『戦国合戦大事典 3』(戦国合戦史研究会編 新人物往来社 1989)
『戦国合戦大事典 5』(戦国合戦史研究会編 新人物往来社 1988)
『戦国史事典』(秋田書店 1980)
『日本史大事典 1 あ-お』(平凡社 1992)p691-692「上田城」
『日本史大事典 4 す-て』(平凡社 1993)p180-182「関ヶ原の戦い」
『国史大辞典 2 う-お』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1980)
p25-26「上田城」の項に記述なし。
『国史大辞典 8 す-たぉ』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1987)
p285-288「関ヶ原の戦」の項にはなし。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
日本史  (210 9版)
参考資料
(Reference materials)
『国史大辞典 10 と-にそ』(国史大辞典編集委員会編 吉川弘文館 1989)
『日本戦史 〔1〕関原役』(参謀本部編 村田書店 1977)
『決戦関ケ原-戦国のもっとも長い日』(学習研究社 2000)
『関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』(笠谷和比古著 講談社 1994)
『歴史読本 1987年7月号』(新人物往来社 1987.7)
『月刊歴史と旅 1999年11月号』(秋田書店 1999.11)
『関ケ原合戦と近世の国制』(笠谷和比古著 思文閣出版 2000)
『関ケ原合戦四百年の謎』(笠谷和比古著 新人物往来社 2000)
『関ケ原から大坂の陣へ』(小和田哲男著 新人物往来社 1999)
『図説関ケ原の合戦』(白水正編 岐阜新聞社 2000)
『徳川三代のトラウマ(宝島社新書)』(瀬戸環、中野元著 宝島社 2000)
キーワード
(Keywords)
日本史-江戸時代
関ヶ原の合戦
徳川 秀忠(トクガワ ヒデタダ)
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
質問者区分
(Category of questioner)
個人
登録番号
(Registration number)
1000097314解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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