『大原總一郎随想全集1』(福武書店、1981年)のP.88~89に、「満州事変に際し、昭和七年国際連盟から派遣されたリットン調査団の中の一部の視察員が倉敷を訪れた時は、中央集権の独裁国だと思っていた日本の片田舎に、このような文化財が公開されているということは、調査団の先入主を改めさせる好材料だといって、喜んで帰ったこともあった。」という回想がある。今村新三『大原美術館ロマン紀行』(日本文教出版、1993年)のP.33~「美術館が街を救った」に、大原總一郎随想を紹介するとともに、「京都精華大教授、上田篤は「空爆されなかったのは泰西名画のお蔭。連合国が京都、奈良と同じように文化財の破壊を避けたのだろう。一つの美術館が街を救ったことになる」と分析する。」などと紹介している。城山三郎『わしの眼は十年先が見える-大原孫三郎の生涯-』(飛鳥新社、1994年)のP11~に、「昭和七年、満州事変調査のため来日したリットン調査団の一部団員が大原美術館を訪れ、そこにエル・グレコをはじめとする名画の数々が並んでいるのに仰天する。このことから、日本の地方都市クラシキの名が知られるようになり、太平洋戦争下も、世界的な美術品を焼いてはならぬと、倉敷は爆撃目標から外された、といわれる。」と紹介している。山陽新聞社『夢かける 大原美術館の軌跡』(山陽新聞社、1991年)のP.151~「リットン調査団」に、「憲兵、制・私服警官らの鋭い目がそこら中に光っていた。一九三二年(昭和七年)七月三日夕方の岡山駅構内。…国際連盟が派遣した調査団(リットン調査団)を乗せた臨時急行列車が、到着しようとしていたのである。一行は調査団委員長の英国外交官リットン、米仏伊独四カ国の四委員、随行員、日本外務省関係者ら計三十五人。調査団はこの年二月二十九日に来日し、三月十一日まで滞在。…岡山駅では停車時間の合間に、記者会見が行われることになっていた。…実は、このリットン調査団の随行員が大原美術館を訪れている。」としている。また上田篤氏の美術館が町を救ったという説を紹介している。今後の展望を記しておくと、なんらかの形でリットン調査団の一部の倉敷訪問があったのであれば、当時の大原美術館の日誌、或いは山陽新聞(その前身紙)の記事などに記述があるのではないかと考える。