近松門左衛門は劇作家で現代の劇文学を確立したといわれている人物です。本名は杉森信盛、1653年に越前(現在の福井県)にうまれました。父は松平忠昌に仕える武士でしたが、門左衛門が子どもの頃に浪人をし、一家は京に住むようになります。大きくなった門左衛門は公家に仕えます。この間、公家の文化に接し、書物を読み、深い知識を身につけたといわれています。門左衛門が仕えた正親町公通は、自ら人形浄瑠璃の脚本を書き、宇治加賀掾のもとに届ける使いを門左衛門にさせていたといいます。これが縁で加賀掾に弟子入りをし、芝居の世界に身を投じます。
門左衛門31歳のとき『世継蘇我』を加賀掾の宇治座で上演します。これまでにも門左衛門の作品と言われる物もありますが、事実上これが門左衛門の作品だとわかる最初の作品です。『世継蘇我』は物語の筋を追うだけでなく、人間の心の動きを丁寧に描いた作品で、これをきっかけに人形浄瑠璃は新しい時代に入ったといわれます。この作品以前を「古浄瑠璃」以後を「新浄瑠璃」と呼びます。
門左衛門の書名がある最初の作品は『佐々木先陣』です。作者よりも太夫や役者の意見が重んじられる芝居の世界では、作者が名前を出すことは出来ませんでした。しかし門左衛門がこの慣習を破ったことで、作家の仕事が独立した職業として認められるようになります。
41歳のとき歌舞伎の和事を得意とする名優坂田藤十郎と手を組み、『仏母摩耶山開帳』を書きます。このコンビの舞台は大評判となりますが、1702年門左衛門が50歳のときコンビは解消されます。最後の歌舞伎作品は『傾城壬生大念仏』でした。
まもなく門左衛門は人形浄瑠璃の作家として大坂に復帰し、苦境に陥っていた竹本座に頼まれ曽根崎天神であった心中事件を題材に『曽根崎心中』を書きます。それが1703年門左衛門51歳のときでした。上演は事件から一ヶ月あまりの早業で、連日の大入りを続けました。『曽根崎心中』は人形浄瑠璃の世界で最初の本格的な世話物といえます。この作品は主人公の二人がどのような気持ちで愛し合い、なぜ死を選ばなければならなかったのかをとらえ表現しています。この作品後、心中物が大流行し、若いカップルの間に心中が流行したことで、幕府は1724年心中物の上演を禁止します。竹本座は経営を竹田出雲に任せ浄瑠璃に義太夫が専念した新生竹本座となり、門左衛門は座付き作者に迎えられます。そのため門左衛門は京都を離れ大坂に引っ越します。
門左衛門は四十七士の討ち入りをテーマにした作品をこの事件から4年後の54歳のとき発表します。この『兼好法師物見車』『碁盤太平記』は幕府のお咎めを受けることを避けるため、登場人物の名前を少し変え遠い昔の出来事として時代物に仕上げています。後の忠臣蔵のもとになっています。その後、門左衛門と義太夫のコンビは時代物『用明天王職人鑑』、世話物『冥途の飛脚』をはじめとし、数々の作品を生み出し、ファンをわかせます。ところが1714年門左衛門62歳の秋、義太夫が病に倒れ亡くなり3年前には師匠とも言うべき加賀掾もこの世を去っています。義太夫のためにも義太夫の後継者、政太夫に『国性爺合戦』を書き上げます。『国性爺合戦』は中国人の父と日本人の母との間に生まれた和藤内が主人公です。滅亡の危機にある父の祖国大明国を支援するために、父母とともに海を渡って大活躍する物語です。この芝居は足掛け3年17ヶ月というロングランとなり大当たりしました。さらに『国性爺合戦』は歌舞伎にもなり、大坂や江戸でも上演されます。その後も『心中天網島』などの名作を送り出し、1724年72歳のはじめ『関八州繋馬』が最後の作品となり、この年の11月22日にこの世を去ります。
門左衛門が40年間に書いた作品は、歌舞伎の脚本が30篇、浄瑠璃のうち時代物(日本や中国の古い本から材料をとったもの)が90篇、世話物(その時代の町人社会の義理や人情をテーマとした作品)が24篇ほどありました。
近松門左衛門の人気は坂田藤十郎や竹本義太夫というトップスターと組んだこと、三味線やからくりなど演出を行う仲間に恵まれていたこともありますが、1番大きかったのは脚本だといえます。門左衛門は「芝居は虚実皮膜論にある」と考えていました。虚と実は皮膚と肉のちょうど境目、微妙なかねあいになければならないという意味です。また脚本を書く際には人の心の動きを丁寧に描くことに神経をそそいでいました。門左衛門が活躍した頃は、平和が続いたあとで、経済がめざましく成長し町人が力を持ってきたときでしたが、武士支配の体制がまだ残っている時代でもありました。人々は好景気により幸せに満ちているようにみえましたが本当は、義理、世の中の制度、しきたりや道徳に縛られていました。それは国や町や村の仕組みを守っていくためには必要でしたが、一方で人間らしさ、心の自由を奪うものでした。人間らしく自由に生きることを選択すると、社会の掟に背くことになります。心中もまた義理をとるのか、恋を取るのか悩んだ末の結末です。門左衛門はそんな人間の心の動きに、ドラマを見出したのです。どの主人公も悲劇にふさわしい人間的弱さをもち、いざという時には危機をもかえりみない行動に出るその強さが現実の矛盾をえぐりだし、さらには封建社会に対する抵抗のあかしともなったのです。ただ見て楽しむ芝居ではなく、この時代に生きる人の魂までゆさぶる芝居を書き上げていたのです。さらに門左衛門の作品には時代を越えた人間愛の美しさがあります。作られたドラマであっても筋がしっかりしていて観客をあきさせることがありませんでした。観客は登場人物たちに共感を覚え舞台にひき込まれていきます。これらが門左衛門の作品が当時の人々に受け入れられ、今日に至るまで人気のある理由です。