レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011年07月14日
- 登録日時
- 2011/09/21 10:14
- 更新日時
- 2011/12/13 17:57
- 管理番号
- 埼熊-2011-089
- 質問
-
未解決
赤穂浪士47人が3か所に分かれて集合するとしても、1か所あたり16人程度になるが、裏店の1軒にそんなにたくさんの人たちが入ることができたのか。
長屋木戸があったはずなのに、裏店に武装した徒党が自由に出入りできたのはなぜか。
- 回答
-
建物の広さや、集合場所周辺の長屋木戸等について記述のある資料は見つからなかった。
赤穂浪士が集合場所としたのは、武家屋敷と町人町が同居しているような所だったようである。
集合場所について記述のある以下の資料を紹介した。
『赤穂義士事典 増訂』(赤穂義士顕彰会編 佐佐木杜太郎改訂・増補 新人物往来社 1983)
p94「めいめい(中略)三か所の集合所へ寄り合った。三か所というのは、本所林町五丁目紀伊国屋書店・堀部安兵衛宅と、本所徳右衛門町一丁目・杉野十平次宅、本所相生町ニ丁目・前原伊助の宅である。この三か所に集まって、最後に堀部安兵衛の宅で総揃いして、それから吉良邸に向かうという手筈になっていた。したがって、当夜持参の武器や諸道具の大部分は早くから堀部の宅に持ちこまれていたのである。」との記述あり。
『図説忠臣蔵』(河出書房新社 1998)
p82-85「赤穂浪士は、いかにして江戸に潜伏したか」(吉原健一郎)中に、以下の記述あり。
p85「本所の町々の成立事情をみると、江戸から移転した町が多く、町の管理運営の面でも、江戸中心部の町よりも十分な状態ではなかったと思われる。」
「前原伊助が米屋をしていた本所二ツ目相生町三丁目は元禄十年までは幕府碁所の家元であった本因坊家の拝領屋敷であった所である。」
「堀部安兵衛の居所である本所林町は、元禄三年に出来た町であり、浅草の町々で幕府に召し上げられた場所の町人が代替地として与えられた寄合い所帯の町であった。」
「本所・深川の町々は代官支配のもとで年貢を納めながら、実態としては町人が居住し、商売などをしていたのである」
『赤穂事件』(黒川一夫著 青史出版 2009)
p172-173「この地は直ぐ南に堅川(運河)が流れ、一ッ目橋とニッ目橋の中間に位置し、吉良邸討入り隊にとっては、討入りの適地として、これ以上の地は望めない程の地であった。(中略)この位置は、川から上がって、人と会うことなしに吉良邸に行ける、格好の地であった。」との記述あり。
p299「安兵衛の所は一党集合の三か所の一つとなり、討ち入りの集合本部となった。訓令中に「目立ち候武器、其他当夜の用具は前以て堀部安兵衛宅へ運び置き申す可き事」とある。」との記述あり。
なお、集合場所が3か所であった記述は、『忠臣蔵百科』(泉秀樹著 講談社 1998)、『忠臣蔵のことが面白いほどわかる本』(山本博文著 中経出版 2003)等にも見られた。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
-
- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
- キーワード
-
- 日本-歴史-江戸時代
- 赤穂事件(1701-1703)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000091175