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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000090322
提供館
(Library)
福岡県立図書館 (2110014)管理番号
(Control number)
福参-0668
事例作成日
(Creation date)
2011/3/15登録日時
(Registration date)
2011年08月24日 02時00分更新日時
(Last update)
2011年08月25日 17時00分
質問
(Question)
福岡藩の参勤交代における人数を知りたい。それが分かる文献・史料はないか。
回答
(Answer)
参勤交代の人数は同じ江戸時代、同じ藩(福岡藩)においても相違がある。
制度と実態では相違があるため、正確な人数を知るには原史料にあたる必要があるが、文献からおおよその人数を調べ、紹介。
近世後期の福岡藩においては500~600人。

以下、典拠を示す。
・「福岡藩主黒田斉清が文政6年(1823)3月、たまたま中山道経由で下国した時、彼は江戸麻布の藩邸を発ち、雑司ヶ谷(ぞうしがや:調査者注)までは禄高52万3000石余の格式相応の『本御行列』で威風堂々と行進したようであるが、その先は供人数も減少して軽装の『御道中御行列』で、中山道をのぼっていった。こうした『本御行列』と『御道中御行列』の供人数の割合は、大名や年代差によって異なるはずであるが、大体三対二程度ではないかと思われる。」(『日本近世交通史の研究』568頁6行目~同10行目)。

・「彼(十代藩主黒田斉清:調査者注)は、文政10年(1827)3月6日、江戸麻布の藩邸を発ち、雑司ヶ谷まで禄高52万3000石の格式相応の『本御行列』(総勢500~600人)で威風堂々と行進したが、その先は供人数(多くは雇いの町人)も減らし、軽装の『御道中御行列』(本行列より半減以下)で」中山道をのぼり、帰国を急いだ(文政10年「御帰国道中日記」3月6日条以下)。」(『福岡県史 通史編 福岡藩(1)』227頁5行目~同8行目)
回答プロセス
(Answering process)
丸山雍成氏の参勤交代に関する論考を検索、紹介。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
日本史  (210 8版)
参考資料
(Reference materials)
1 日本近世交通史の研究 丸山/雍成?著 吉川弘文館 1989.2 682/1/S56 567-569
2 参勤交代 丸山/雍成?著 吉川弘文館 2007.7 210/5/539 126-131
3 福岡県史 通史編[3] 西日本文化協会∥編纂 福岡県 1998.3 K209//フ 225-233
1 藩史大事典 第7巻 木村 礎∥[ほか]編 雄山閣 1988.7 K203//ハ 28
2 天保十三年御参勤御道中日記 中原 三十四∥[著] 中原三十四 [出版年不明] K250/260/テ
3 斉溥公御参府前録御用状共 楽しく古文書を読もう会∥編集 楽しく古文書を読もう会 2005.12 K250/260/ナ
4 斉溥公御参府御道中日記御用状共 楽しく古文書を読もう会∥編集 楽しく古文書を読もう会 2008.2 K250/260/ナ
5 国史大辞典 6 国史大辞典編集委員会?編 吉川弘文館 1985.11 210/03R/70-6B 522・523
キーワード
(Keywords)
福岡藩 参勤交代の人数
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
依頼者の調査済み資料…柴多一雄分担執筆「福岡藩」の〔参勤交代〕(『藩史大事典』第7巻九州編)は見られたが、参勤交代の人数は記されていなかった、とのこと。
依頼者は紹介した調査資料①~③の該当箇所をコピーされる。
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
社会人
登録番号
(Registration number)
1000090322解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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