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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000082499
提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)管理番号
(Control number)
埼熊-2010-108
事例作成日
(Creation date)
2010/12/21登録日時
(Registration date)
2011年03月22日 02時14分更新日時
(Last update)
2011年06月06日 11時21分
質問
(Question)
江戸時代の漢方医「浅田宗伯(あさだそうはく)」が天保3年(1832)に江戸に出て開業するが、江戸の何町に住んでいたか知りたい。
※晩年に現在の牛込区横寺町にいたことは判明している。
(典拠)『徳川幕臣人名辞典』(東京堂出版)p14に上の内容が載っていた。
回答
(Answer)
浅田宗伯が江戸に初めて出て開業するのは天保7年(1836)5月のもよう。
この時は、叔父の狭山藩医を頼って江戸に出ており、開業は翌年(天保8年)とする資料もあった。
浅田宗伯が牛込横寺町に居を移したのは明治4年(1871)なので、この間の住居に関わる記述を探したが、明確な資料は見つからなかった。
所蔵資料等で判明した事実は次のとおり。
・父の危篤により天保9年帰郷するが、その死後再び江戸に出ている(天保9年)。
・江戸に戻ると住まいが火災で焼け落ちていた。小田原街からの出火によるものなので当時の住まいは小田原町(日本橋もしくは築地)の近くであった可能性がある。
・天保9年10月に高遠藩の藩医となり、邸を賜っているのでここに転居している可能性がある。
・安政2年(1866)幕府のお目見え医師となったので、役職武鑑などに名前(住所か)が残っているが、墨字影印のためうまく判別できない。
・夏目漱石の『吾輩は猫である』の中に(漱石と思われる)主人公が子どもの時に「牛込の山伏町」に浅田宗伯がいたとする記述が確認できるが、漱石の生れは慶応3年(1867)なので居を移す前かどうかは不明である。

以下の資料の記述を紹介する。
『徳川幕臣人名辞典』(東京堂出版 2010)
p14-15〈浅田宗伯〉の項あり。
「宗伯は天保3年(1832)、京都に出て漢方医学を学び、そのかたわら頼山陽に師事。大塩平八郎にも入門するが、大塩の挙兵を察し、辞去したという。同7年5月、江戸に出て開業するも、同9年4月17日に父の危篤に接し帰郷した。この間、伯父佐久間氏の息女を娶る。父の死後再び江戸に出て、同年7月に宗伯と改めた。その後、高遠藩などの大名屋敷で医療活動を行い名声を高める。」
「明治4年(1871)、東京牛込区横寺町に隠棲した。」
※天保3年というのは京都に出てきた時期のことで、江戸に出て開業したのは天保7年(1836)とあり。

『吾輩は猫である』(夏目漱石著 角川書店 1978)
p113「主人の子供の時に牛込の山伏町に浅田宗伯という漢方の名医があったが、この老人が病家を見舞う時には必ずかごに乗ってそろりそろりと参られたそうだ。ところが宗伯老がなくなられてその養子の代になったら、(後略)」

《WHOPLUS》(事典近代日本の先駆者)「天保3年(1832)京都に出て漢方医学を修め(中略)天保7年叔父の狭山藩医を頼って江戸に出て、翌年開業したが、病いをえ、さらに父も死去したことで帰郷した。服喪中に後世に名を残すような名医になる決意を固めて再び江戸に出て、幕府の医師・本康宗円の援助を受け、その紹介で知遇をえた多紀口庭の推挽により幕府のお目見え医師になった。」とあり。

『日本近現代人名辞典』(臼井勝美〔ほか〕編 吉川弘文館 2001)
「京都に行き、中西鷹山の塾に学んだ。その後いったん郷里に帰り、天保4年(1833)江戸に上り、医を開業したが、3年間困窮の生活を送った。たまたま法眼本康宗円の知遇を得、その紹介により(中略)医業大いに進んだ。同7年剃髪して名を宗伯と改めた。」「安政2年(1866)幕府のお目見え医師となり」「明治4年(1871)牛込横寺町に居を移し(後略)」
※この資料では京都から郷里に帰り、天保4年に江戸に上っている。

『日本史人物辞典』(日本史広辞典編集委員会編 山川出版社 2000)
「1832年(天保3)京都にいき中西深斎塾で医学、頼山陽に儒学を学ぶ。36年江戸で開業。」とあり。

『続徳川実紀 4(国史大系 51)』(吉川弘文館 1967)
p948 慶応2年7月大坂滞在中の14代将軍家茂を往診するため上坂したこと、同16日に奥医師に召し出されたことなどの記述あり。

『江戸幕府役職武鑑編年集成 33-35』(東洋書林 1999)
各年の役職一覧あり。文久元年(1861)から慶応2年(1866)の『武鑑』に名前がある。索引がないため名前があっても確認が難しい。
第33巻p320「(文久元年)文久武鑑」御目見医師の項に浅田宗伯の名前あり。名前の前に(おそらく)住所あり。
中込和き丁(=町)か、牛込和き丁か、比較的写りは良いのだが判読できず。
※ 「大成武鑑」では「上生記丁」  「(年号)武鑑」では「中込和き丁」のように読める。版木が異なるだけで、同じ地名か。
(『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』によると中込という地名はない。牛込○○町は数が多い。)

五十嵐 金三郎著「浅田宗伯と服部甫庵(明治裏面史抄-2-) (明治の夜明け〈特集〉) 」(『日本古書通信』54(4) [1989.04] p7-9)
宗伯の経歴について記述あり。質問の事項に関する記述は次のとおり。
 「(前略)18才の春、京都に入り中西深斎塾を中心に各家に出入れし、医を学ぶ傍ら経書を猪飼敬所に、史学を頼山陽に学んだ。22才の時伯父佐久間氏を頼り江戸に出、翌年狭山侯の医員となり、26才、高遠侯邸に伺候し、治療し、名声を上げた。(後略)」
※「翌年」狭山侯の医員となっているが、他の資料ではこの年に開業とある。

『日本の創造力 1 御一新の光と影』(日本放送出版協会編 日本放送出版協会 1992)
p115-126 浅田宗伯についての項目あり。
 「天保7年には叔父で狭山藩医の佐久間宗英を頼って江戸に出て、翌年開業を果たし」「天保9年4月、父の済庵が没した。悲嘆にくれて郷里に帰り、(略)再度江戸へと向かった。しかし、江戸に着いてみると、住まいは郷里に帰っているあいだに火災にあい、焼け失せてしまっていた。」などの記述あり。住所がわかる記述はない。

『御薬さらし水飴 浅田飴八十年史』(高須半湖著 堀内伊太郎商店 1964)
明治28年に出版された信濃の赤松氏著の「浅田宗伯翁伝」上中下巻を参考にしたとして「京都より郷里へ帰った宗伯は間もなく江戸に出て(略)天保7年5月、22歳の時に、漸く念願が叶って、開業することはしたものの、さて両3年というものは、宗伯という名もその技倆も知る者とては一人もなく、門前雀羅を張る有様で、その間の労苦というものは、実に言語に絶したものであったと言う。(略) 天保9年には郷里の父済庵が世を去り、自家が小田原街の火事に、類焼するなど非常に多難な年であったが、10月には幸いにも中村仲倧等の推挙があり、高遠侯より邸を賜り藩医として迎えられ(後略)」とある。
p29 明治以降でも駕籠に乗っていた話もでている。
 【小田原街】
『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』によると、東京にも「小田原」と呼ばれた場所があることがわかる。
元は中央区日本橋で、江戸城を築くのに小田原の石工が石揚げ場として当地を与えらあられたことに由来する。後、石揚場を築地に移した時に元の場所を本小田原町、築地の新しい石切場を南小田原町とした。

『現代に蘇る漢方医学界の巨星 浅田宗伯』(油井 富雄著  医療タイムス社 2010)
p16-17「伯父が江戸で医業を開業」の項に
「宗伯が、江戸・東京に住んでいた痕跡を明確に特定できる場所が二か所ある。
嘉永七(1854)年版の江戸切り絵図の日本橋周辺図には、宗伯の住居であることを示す記述がある。場所は当時の表記で日本橋上槇町、現在の東京駅八重洲口の前の千代田区八重洲一丁目にあたる。大奥の侍医などを務め天璋院(篤姫・十三代将軍家定正室)や静寛院(和宮・十四代家茂正室)が江戸城を討幕軍に明け渡す時期までここに住んでいたと思われる。」
この後、牛込横寺町に住んでいたとのいう記述もあり。

『江戸切絵図集成 6』(斎藤直成編 中央公論社 1984)
索引に〈浅田宗伯〉の項あり。「浅田宗伯 ②76C1」とあり。
該当の巻『江戸切絵図集成 2 近江屋板 上』(斎藤直成編 中央公論社 1981)を確認する。
p76「再板日本橋南京橋八丁堀霊岸嶋辺図 1」図中に「浅田宗伯 上槇町」との記述あり。この図はp74によると嘉永7年のもの。上記の記述の図ではないかと思われる。

未調査だが、情報として紹介する。
「浅田宗伯翁伝」(赤沼金三郎著 寿盛堂 1895)(国立国会図書館マイクロフィッシュを所蔵)
「浅田宗伯書簡集」(汲古書院 1986)
回答プロセス
(Answering process)
情報源の資料を見て、江戸に出て開業した年を確認する。
《Google》を〈浅田宗伯〉で検索し、浅田飴のウェブサイト等を確認するが記述は見つからず。
《Amazon.com》を〈浅田宗伯〉で検索した結果から「現代に蘇る漢方医学界の巨星 浅田宗伯」という資料があることがわかるが、未所蔵。
また、《Amazon.com》の検索で「吾輩は猫である」にも浅田宗伯の居住地について、記述があることがわかるが、質問の時期が確認できず。
自館目録を〈浅田宗伯〉で検索した結果の資料を確認するが該当の記述は見つからず。
《WHOPLUS》を調査し、記述を確認する。
近世の人名事典を確認する。
《NDL-OPAC(雑索)》を検索して所蔵しているものの内容を確認する。
上記の調査過程で見た資料の参考文献を確認する。
高遠藩の藩医だったことから、『高遠町誌』など高遠藩に関する資料を確認するが、質問の事項はわからず。
事前調査事項
(Preliminary research)
「泥坊の話お医者様の話」(中公文庫)p240「浅田宗伯と千住の按摩の話」に宗伯翁老の自宅が牛込横寺町である記述があった。
「徳川幕臣人名辞典」(同上)に典拠・参考文献として「浅田宗伯翁伝」(寿盛堂 1895年)とあるが、国会図書館総合目録では、他県(国会図書館、都立、大阪府立等)の所蔵となっていた。
「日本史人物辞典」(山川出版社)の浅田宗伯の頁には記述なし。
「コンサイス日本人名事典」(三省堂)には浅田宗伯の項目なし。
NDC
個人伝記  (289 9版)
参考資料
(Reference materials)
『徳川幕臣人名辞典』(東京堂出版 2010)
『吾輩は猫である』(夏目漱石著 角川書店 1978)
『日本近現代人名辞典』(臼井勝美編 吉川弘文館 2001)
『日本史人物辞典』(日本史広辞典編集委員会編 山川出版社 2000)
『国史大系 51 続徳川実紀 4』(吉川弘文館 1967)
『江戸幕府役職武鑑編年集成 33-35』(東洋書林 1999)
『日本古書通信 54(4)』 [1989.04]
『日本の創造力 1 御一新の光と影』(日本放送出版協会編 日本放送出版協会 1992)
『御薬さらし水飴 浅田飴八十年史』(高須半湖著 堀内伊太郎商店 1964)
『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社 2002)
キーワード
(Keywords)
浅田 宗伯(アサダ ソウハク)
医師-歴史
490
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
人物
質問者区分
(Category of questioner)
図書館
登録番号
(Registration number)
1000082499解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
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