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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000070453
提供館
(Library)
長野市立長野図書館 (2310222)管理番号
(Control number)
長野市立長野-00-032
事例作成日
(Creation date)
2000/07/07登録日時
(Registration date)
2010年08月24日 02時00分更新日時
(Last update)
2016年12月18日 15時51分
質問
(Question)
江戸時代に長崎で火あぶりの刑という形で処刑されたキリスト教徒達がいたが、その時の処刑地(殉教の地)の写真が見たい。
現在碑の建っている場所は実際の場所ではない(長崎県西坂の丘)
回答
(Answer)
長崎の西坂公園に建っている碑は、「日本二十六聖人殉教の碑」ですが、二十六聖人は火あぶりではないので、「元和の大殉教」のことでしょうか。

「元和の大殉教」ですと、立山という記述と、西坂公園を含めた地という記述、二十六聖人が十字架にかけられた丘から遠からぬところという記述がありました。

「日本二十六聖人殉教」についてですと、西坂丘という記述と、立山という記述がありました。
現在の市役所から県庁のあたりにあった長崎の町に向いて十字架が東から西に一列に並べ立てられたようです。

日本二十六聖人記念館のパンフレットによると、西坂公園は二十六聖人の殉教地だということですので、
「元和の大殉教」は「二十六聖人が十字架にかけられた丘から遠からぬところ」という記述などから、
西坂公園とは違う場所だったのではと推測はできますが、
詳細な位置や写真などの資料は見つかりませんでした。

以下参考資料のキリシタンの殉教についての資料をご紹介しました。
回答プロセス
(Answering process)
 『キリシタン街道』p91に
「元和八年(一六二二)八月、いわゆる元和の大殉教が起きた。壱岐、大村、長崎などの牢獄につながれていた宣教師および信徒五十五人が、長崎の立山で火あぶりの刑に処されたのである。」とあるが具体的に立山のどこなのかなどはわからない。

『九州キリシタン新風土記』p729には
「1622(元和8) カルロ・スピノラ神父ら五五名、長崎西坂で殉教。」とある。


【追記:2016年12月18日】

①「元和の大殉教(1622年)」

『日本キリシタン殉教史』
p265~271に「元和の大殉教」の項あり、p268には「処刑地は浦上街道に沿った普通の刑場から、二十六聖人が殉職した、いまの西坂公園にまたがり、山手にも海岸にも無数のキリシタンや教外者たちが群集していた。」とある。

『日本キリスト教復活史』
p18
「それから間もなく九月二日に、長崎のニ六殉教者が十字架にかけられた丘から遠からぬところで、この英雄的な一団の処刑が行われた、その輝かしい最後は教会史上で、<大殉教>という名で知られている。」


②「日本二十六聖人殉教(1597年)」

『日本キリシタン殉教史』
p105~ 「西坂丘の十字架」
「「通路(時津道)の向こう側、海に面して群集の面前に小丘があった。丘の上には二十六人を収容するだけの広場があった」と、フロイス報告書は、殉教の丘について記し、一六二〇年度イエズス会年報にはそれについて「長崎から大村にゆく道から海の方にある小山である。遠くから見れば島のようであり、海にくらべると山であるが道からは低い。何故ならそこから高い山が始まるからである。聖山は海の船からも高い山からも見える」とのべられている。」

「ほんとうは二十六聖人も普通の刑場で処刑されるはずであり、そこに十字架を立てる穴も掘られていたが、「ポルトガル人たちのうち同情心の篤い人々がそれを見て、道の左側に穴を掘るべきであると役人に言った。それは将来そこに教会を建てられるかも知れないと考えられたからである。役人にそれを願い出ると、すぐにそれを許可した」(アビラ・ヒロンの報告書)」

「二十六本の十字架が長崎の町(今の県庁から市役所に至る高台にできた町、いわゆる内町)に向いて西坂丘に並び立った姿は(以下略)」

「殉教者たちの十字架は長崎の町(いわゆる内町で今の桜町から江戸町に至る高台にあった)に面し、三歩から四歩の間隔で東から西に一列に立っていた。」

などの記述あり。
現在の地図で確認してみると、桜町は市役所近辺、江戸町は県庁近辺のようである。

『日本キリスト教復活史』
p14
「処刑の場所」の注(p23)に、
「原注 立山という丘で、長崎の北に位置し、町と港を見おろす。その後、切支丹や宣教師はこの丘を聖山と呼んでいる。」
とあり。

訳者まえがきには、「本書は(中略)フランシス・マルナス著『十九世紀後半に日本で復活したイエスの宗教<耶蘇邪教>』を翻訳したものである」とあったので、インターネットにて上記の書名にて検索をしてみると、「日文研データベース 外像(国際日本文化研究センター)」に該当の資料の挿絵写真があり。(『日本キリスト教復活史』には一部しか掲載がない。)
その中に、「長崎,聖山(立山,西坂殉教者の丘)」という写真があった。
http://db.nichibun.ac.jp/ja/d/GAI/info/GH009/item/008/  <最終確認:2016年12月18日>

碑が建っている西坂公園にある「日本二十六聖人記念館」ホームページのパンフレットによると、
「殉教地は当時町に入る手前の時津街道にはさまれた小高い丘であった。現在西坂公園である」
とあり。
http://www.26martyrs.com/  <最終確認:2016年12月18日>
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
各教派.教会史  (198)
参考資料
(Reference materials)
『殉教』西川 孟/著 主婦の友社 1984.10 <198ニ>
『キリシタン街道』堀江 克彦/写真,松倉 康之/文 PHP研究所 1986.10 <198ホ>
『九州キリシタン新風土記』浜名 志松/著 葦書房 1989.06 <198ハ>
『十六~十七世紀の日本におけるフランシスコ会士たち』トマス・オイテンブルク/著,石井 健吾/訳 中央出版社 1980.11 <198オ>
『江戸キリシタンの殉教』高木 一雄/著 聖母の騎士社 1989 <198タ>
『日本キリシタン殉教史』片岡 弥吉/著 時事通信社 1979.12 <198カ>
『日本キリスト教復活史』フランシスク・マルナス/〔著〕 みすず書房 1985.05 <198マ>, ISBN 4-622-01258-8
キーワード
(Keywords)
長崎県
長崎市
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
文献紹介
内容種別
(Type of subject)
質問者区分
(Category of questioner)
登録番号
(Registration number)
1000070453解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
未解決
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