レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2010年02月21日
- 登録日時
- 2010/03/07 08:48
- 更新日時
- 2010/12/16 15:52
- 管理番号
- 名古屋市鶴-2010-001
- 質問
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解決
山吹小学校(名古屋市東区)の創立年月日を教えてほしい。
- 回答
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名古屋市立山吹小学校ホームページや『六三制教育六十周年記念愛知県小中学校誌』では創立を明治5年8月としています。 ただし、現在の名古屋市立山吹小学校の前身である山吹国民学校ができた昭和21年4月15日を創立とする資料もありました。また、詳細は明らかではありませんが、名古屋藩庁による小学校設立の布告(明治4年7月17日)により明治4年7月~10月頃には現在の山吹小学校の学区内に第三小学校(大光寺)や第四小学校(長久寺)が開校しているようです。
創立年月日として考えられるものをまとめると以下のとおりです。
(1)明治4年7月17日…名古屋藩庁による小学校設立の布告日
山吹小学校百周年記念行事として行われた「山吹物語」(児童劇)の中で山吹小学校の誕生日を明治4年7月17日とする台詞があります。(『山吹ものがたり』p.320)
(2)明治4年7月20日頃…名古屋藩庁による小学校設立の布告で第一校の開業日とされた日
明治4年7月17日の名古屋藩御触留に「第一校二十日より校順毎日に開之 西光院 時習館 元船楫局 大光寺 長久寺 慶栄寺 元御馳走所」(『愛知県教育史 第3巻』p.69)とあります。このうち大光寺と長久寺の2つが現在の山吹小学校学区にあり、名古屋藩御触留どおりに7月20日から一校ずつ順次に開校したのであれば、大光寺が明治4年7月23日、長久寺が7月24日に開校したことになります。
ただし、『愛知県教育史 第3巻』p.69には「日本教育史資料(巻十)には、第一西光院、第二時習館、第三大光寺、第四長久寺、第五安西院の五校をあげ…実際には七校の設立を見ず、右の五校のみ設立されたものかと思われるが、詳細はあきらかでない」とあります。また、細野要斎の『見聞雑剳』にも(明治5年)「八月二十五日、小学女学被廃、皆義校トナル、右ニ付第四校長久寺ヲ新建義校第三校相応寺ヘ合併、相応寺ハ八月十五日ヨリ近辺ノ書学師ヲ集メテ義校トスル也」(『愛知県教育史 第3巻』p.85)とあることから、名古屋藩庁による小学校設立の布告どうりには開校していないようです。
(3)明治4年10月10日…明倫堂(当時の名称は「学校」)を廃止し、素読生を小学校に就かせる
『日本教育史資料4』p.68には「明治四年十月十日舊尾張藩立明倫堂ヲ廢シ堂中ノ生徒ヲ區分シ…素讀生ヲ小學校エ就カシム」とあります。また、学校名称として「第一或ハ第二小學校ト稱ス」とあります。
(4)明治5年8月…学制頒布
現在の山吹小学校の学区内では第六義校(鍋屋町大光寺)が明治5年9月に、第三十三義校(飯田町禅隆寺)が明治5~6年が開設されています(『名古屋市史 [第5] 学芸編』p.242)。また、前述のとおり細野要斎の『見聞雑剳』によれば長久寺は明治5年8月に現在の旭丘小学校の学区内の第三義校(山口町相応寺)に合併されています。
(5)昭和21年4月15日…棣棠(やまぶき)国民学校と白壁国民学校を統合し、山吹国民学校開校
『愛知県小中学校誌 新学制実施二十周年記念』p.200
- 回答プロセス
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(1)『郷土文化』(名古屋郷土文化会)の町史や学校史を一覧にした特集号をまず確認すると、特集号の「学校史(誌)、学区史(誌)一覧」のなかに「山吹(小学校)」があり、ここには創立年月として「昭和21年4月」とありました。また、『山吹学区に光をのこした人々』と『山吹の歩み』が挙げられており、このうち『山吹の歩み』には「学校沿革」があると書かれていました。
(2)そこで、『山吹の歩み』を確認すると、「山吹小学校略史」の冒頭には「明治五年(一八七二)学制頒布とともに、八月、飯田町の禅隆寺に第六義校が創立された」(注:回答にあるように禅隆寺は第三十三義校、第六義校は大光寺)とありました。また、『郷土文化』の創立年月として書かれていた昭和21年4月は山吹国民学校の開校年月であることが分かりました。
(3)『郷土文化』の特集号は昭和51年発行のため、これ以後に学校史が発行されている可能性があることから、OPACで「山吹」で検索してみると、創立百周年記念誌の『山吹ものがたり』があることが分かりました。同書の「山吹小学校沿革史(p.226-229)」の冒頭には「M四・七・二〇 小学校設置の布告により「第四大光寺」「第五長久寺」発足」とあります。また、「山吹小学校のあゆみ(p.4-5)」には近隣の小学校を含む変遷図があり、こちらも明治4年7月20日から始っていますが、明治5年8月の学制頒布により開校した義校とは変遷図がつながっていません。
(4)ここで愛知県の学制以前の状況について『愛知県教育史』で調べてみると、回答にあるように名古屋藩庁による小学校設立の布告(明治4年7月17日)により現在の山吹小学校の学区内の大光寺や長久寺が小学校として開校する予定であったことは確認できましたが、その詳細については明らかでないことが分かりました。そこで『愛知県教育史』が引用している『日本教育史資料』を確認してみると、明治4年10月10日に明倫堂を廃止し、そのうちの素読生を小学校に就かせたと書かれていました。また、書架に『愛知県小中学校誌』があったため、山吹小学校の創立を確認してみると二十周年誌には「昭21年4月15日」、三十周年誌以降には「明治5年8月」とありました。
(5)念のため山吹小学校の現在の学区について『名古屋市学校配置図 平成21年9月1日現在』で確認し、さらに明治初期と現在とで大光寺・禅隆寺・長久寺の場所がほぼ変わっていないことを『名古屋城下デジタル復元地図』(CD-ROM:弘化4年、明治3年、現代の地図を収録し、弘化4年と明治3年の地図については現代の地図と重ねて表示することが可能)で確認しました。
(6)また、山吹小学校のホームページを調べてみると、「学校沿革史」の冒頭には「明治5年8月 学制頒布と共に第六義校として飯田町襌隆寺に創設」とありました。
- 事前調査事項
- NDC
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- 教育 (370 9版)
- 参考資料
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- 『愛知県教育史 第3巻』 愛知県教育委員会/編 第一法規出版 1982年 p.68-69,85
- 『日本教育史史料4』 文部省総務局 1891年 p.68
- 『名古屋市史 [第5] 学芸編』 愛知県郷土資料刊行会 1979年 p.242
- 『山吹ものがたり』 名古屋市立山吹小学校/編 名古屋市立山吹小学校 1975年 p.4-5,226-229,313-320
- 『山吹の歩み』 江崎公朗/著 「山吹の歩み」刊行会 1967年 p.276-278
- 『山吹学区に光をのこした人々』 江崎公朗/著 山吹小学校父母と先生の会 1961年
- 「創刊30年記念号 名古屋市内区史・町史・学校・学区史一覧並びに事項索引」 『郷土文化』 名古屋郷土文化会 30巻3号(昭51.3) p.12
- 『愛知県小中学校誌 新学制実施二十周年記念』 愛知県小中学校長会/編 愛知県小中学校長会 1968年 p.200
- 『愛知県小中学校誌 六三制教育三十周年記念』 愛知県小中学校長会/[編] 愛知県小中学校長会 1978年 p.217
- 『愛知県小中学校誌 六三制教育四十周年記念』 愛知県小中学校長会/[編] 愛知県小中学校長会 1988年 p.250
- 『愛知県小中学校誌 六三制教育五十周年記念』 [愛知県小中学校長会/編] 愛知県小中学校長会 1998年 p.284
- 『六三制教育六十周年記念愛知県小中学校誌』 [愛知県小中学校長会/編] 愛知県小中学校長会 2008年 p.324
- 『名古屋市学校配置図 平成21年9月1日現在』 名古屋市教育委員会事務局総務部総務課/編 [名古屋市教育委員会事務局総務部総務課] 「2009年]
- 『名古屋城下デジタル復元地図』 名古屋城下町調査実行委員会 2007年 CD-ROM
- http://www.yamabuki-e.nagoya-c.ed.jp/syoukai/enkakusi.htm [last access 2010/3/11]
- キーワード
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- 山吹小学校
- 学校誌
- 義校
- 大光寺
- 禅隆寺
- 長久寺
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000064451