レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2009/10/27 11:26
- 更新日時
- 2011/03/31 09:43
- 管理番号
- 09-024
- 質問
-
解決
[図書館展示準備調査 明治法典制定への道]
箕作麟祥と自由民権運動の関係について
- 回答
-
■『明六雑誌』における活動
・『明六雑誌』について
明六社は森有礼を中心に、西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、箕作秋坪、
福沢諭吉、杉亨二、箕作麟祥をメンバーとして 1873年(明治6)に結成された。『明六雑誌』
は明六社の機関誌である。雑誌の内容は、明六社における演説、討論の結果などを記録し、
頒布することを目的とした。
その後、75年に新聞紙条例改定、讒謗律(ざんぼうりつ)制定で言論弾圧が強化されると、
福沢諭吉の提案により、自主的に廃刊を決議した(1875年11月、第43号が最終号)。
※参考文献:日本評論社刊『明治文化全集 第五巻 雑誌篇』所収 西田長壽著『明六雑誌解題』
神奈川大学図書館では『明六雑誌』第一号を所蔵している。保存状態は良好。
・箕作麟祥と『明六雑誌』
箕作麟祥が『明六雑誌』へ寄稿した文章としては以下のものがある。
・第四號 「人民ノ自由ト土地ノ気候ト互ニ相関スルノ論」
・第七號 「開化ノ進ムハ政府ニ因ラス人民ノ衆論ニ因ルノ説」
・第九號 「「リボルチー」ノ説」
・第十四號 「「リボルチー」ノ説第九號續」
箕作は「リボルチーの説」において自由の概念を説いている。山室信一・中野目徹校注『明六雑誌(上)』
(岩波書店 , 1999.)の中で、リボルチーの説に関して若干の解説がなされているので以下に抜粋する。
「2 リボルチーの説(一)
自由という概念の語義とその変遷をヨーロッパの歴史に即して解説する。箕作も国民の自由の保障
こそが国力の強盛をもたらすとみるが、自由を単なる身分的関係や状態として捉えるのではなく、政
治制度として国民に主権が与えられてその行為に参与することが緊要であると強調し、さらに国民の
君命に抵抗する権利についても触れる。」
政府の一役人の身分として、たとえ翻訳であったとはいえ、かなりラディカルな言論を展開していたことが
分かる。事実、箕作はその後、『万国叢話』第二号に「国政転変ノ論」を掲載した。
時代は自由民権運動が盛り上がりを見せた時代であり、国民の抵抗権・革命権を紹介した箕作の行いは
政府内部において反発を招き、箕作の進退を問う論が起きたが、司法卿大木喬任の弁明によって事なき
を得たという。こうした幾つかの事例を見ていくと、静かな肖像写真の佇まいとは裏腹に、当時としては
ラディカルな思想の持ち主であったのかもしれない。しかし、ナポレオン法典の訳業に携わり、当時最先端
の社会思想に触れていた事を考えれば当然のことかもしれない。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 日本評論社刊『明治文化全集 第五巻 雑誌篇』所収 西田長壽著『明六雑誌解題』
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山室信一・中野目徹校注『明六雑誌(上)』
(岩波書店 , 1999.) - NDL日本法令データベース〔明治前期編〕 (http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/index.pl)
- NDL近代デジタルライブラリー (http://kindai.ndl.go.jp/)
- キーワード
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- 明六雑誌
- 箕作麟祥
- 森有礼
- 福沢諭吉
- 明六社
- 新聞紙条例改定
- 讒謗律
- 「「リボルチー」ノ説
- 展示
- 照会先
- 寄与者
- 備考
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■明治8年9月4日 郵便報知
明六雑誌の出版を止むるの議案
福沢諭吉
本年六月発行の讒謗律及び新聞条例は、我輩学者の自由発論と共に両立すべからざるものなり。
この律令をして信ん行わしめなば、学者はにわかにその思想を改革するか、もしくは筆を閣して
発論を止めざるべからず。
我が明六社設立の趣旨は社則第一条に記するが如く、同士集会して意見を交換することなり、
またこの意見を談論演説してこれを雑誌に出版することなり、しかして設立以来、社中に行われ
たるの社説論説の趣きを見て今後を察するに、今後の出版必ず律令に触れざるを期すべからず。
加うるに、社員十に八、九は官吏たるを以って、七月九日第百十九号の官令によれば、発論の
制限ますます窮屈なるを覚ゆるなり、たとえば、前日の雑誌に出版したる西周先生の内地旅行論
の如きも、今日にあっては発兌すべからざるものならん。
故にこの際に当たって、わが社の決議すべきは、第一に社員本来の思想をにわかに改革し、節
を屈して律令に適し、政府の思うところを迎えて雑誌を出版するか、第二制律を犯し条例に触れ、
自由自在に筆を揮いて政府の罪人になるか、ただこの二箇条あるのみなれども、目今社中全体の
有様を察すれば、両様共に行われ難かるべし。けだし、節を屈すると云い発議を自由にする
という如きは、まさに精神の内部に存するものにして人々の一心を以って決すべきことならば、
社員の所見真に一に合うして、一社あたかも一身の如くなるにあらざれば共にその進退をともに
すべからず。しかるにこの社設立日なお浅し、わずかに一月二度の集会を催すまでのことにて、
未だ一社一身の如きものと視るべからざればなり。右の如く説を屈することあたわず、発論を自
由にすることもまたあたわず。しかればすなわち単に雑誌の出版を止むるの一策あるのみ。この
一策決して上策にあらずといえども、いやしくも学者の社中として今の律令のために発論の自由
を妨げられ、その律令に触るることもあたわず、また甘んじて節を屈することもあたわず曖昧の
中間にありて身体不決の手本を世上に示する、社のために取らざるところなり。
関連事例
https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000059051
https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000059035
https://crd.ndl.go.jp/GENERAL/servlet/detail.reference?id=1000059031
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- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000059031
- 関連ファイル
-
頃日吾儕盍簪シ或ハ事理ヲ論シ或ハ
異聞ヲ談シ一ハ以テ学業ヲ研磨シ一
ハ以テ精神ヲ爽快ニス其談論筆記ス
ル所積テ冊ヲ成スニ及ヒ之ヲ鏤行シ
以テ同好ノ士ニ頒ツ瑣々タル小冊ナ
リト雖モ邦人ノ為ニ智識ヲ開クノ一
助ト為ラハ幸甚日本法令データベース〔明治前期編〕より
<法令名> 讒謗律
<発令年月日> 明治8年6月28日
<法令の種別・番号> 太政官第110号布告 (輪廓附)
<出典> 『法令全書』
<分類> HC03 警察・消防-保安警察-言論・出版
<法令ID番号> 00010849
第一条
凡そ事実の有無を論ぜず人の栄誉を害すべきの行事を摘発公布する者、之を讒毀
とす。人の行事を挙るに非ずして悪名を以て人に加へ公布する者、之を誹謗とす。
著作文書若くは画図・肖像を用ひ展観し若くは発売し若くは貼示して人を讒毀し
若くは誹謗する者は、下の条別に従て罪を科す。日本法令データベース〔明治前期編〕より
<法令名> 新聞紙条目ヲ廃シ新聞紙条例ヲ定ム
<発令年月日> 明治8年6月28日
<法令の種別・番号> 太政官第111号布告 (輪廓附)
<出典> 『法令全書』
<分類> HC03 警察・消防-保安警察-言論・出版
<法令ID番号> 00010850
第一条
凡そ新聞紙及時々に刷出する雑誌・雑報を発行せんとする者は、持主若くは社主
より其の府県庁を経由して願書を内務省に捧げ允准を得べし。允准を得ずして発
行する者は法司に付し罪を論じ〈凡そ条例に違ふ者は府県庁より地方の法司に付
し罪を論ず〉、発行を禁止し、持主若くは社主及編輯人・印刷人各々罰金百円を
科す。其の詐て官准の名を冒す者は各々罰金百円以上二百円以下を科し、更に印
刷器を没入す。■森有礼
鹿児島生まれ。外交官、政治家。父は鹿児島藩士。藩校造士館、藩洋学校開成所
に学ぶ。慶応元年(1865)藩の留学生として英国に留学。米国を経て明治元年(1868)
帰国後、新政府において徴士、外国官権判事、公議所議長心得、制度寮副総裁心
得などをつとめる。一時離職し郷里に戻るが、再び出仕。米国在勤後の6年(1873)
明六社を設立するなど、欧米思想の啓蒙に尽力。8年(1875)商法講習所設立に参画
。以後駐清公使、外務大輔、駐英公使、参事院議官兼文部省御用掛等を歴任。第1
次伊藤、黒田各内閣の文相となる。憲法発布当日、国粋主義者に襲われ翌日死去。
参考:NDL近代日本人の肖像
■明六社
明六社は森有礼の首唱により西村茂樹、津田真道、西周、中村正直、加藤弘之、
箕作秋坪、福沢諭吉、杉亨二、箕作麟祥の10人で発足、のち津田仙、神田孝平
らが加わる。