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レファレンス事例詳細(Detail of reference example)

[転記用URL] http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000057734
提供館
(Library)
埼玉県立久喜図書館 (2110009)管理番号
(Control number)
埼熊-2009-012
事例作成日
(Creation date)
2009/04/04登録日時
(Registration date)
2009年09月09日 02時11分更新日時
(Last update)
2009年09月17日 09時11分
質問
(Question)
渋江鋳物師について知りたい。
回答
(Answer)
渋江鋳物師は渋江を拠点とした鋳物師集団で、権力者としての渋江氏(武蔵七党またはその末裔)とは別者と思われる。記述のあった資料を紹介する。回答プロセス参照のこと。
回答プロセス
(Answering process)
関連する資料を調査して回答した。
紹介した資料
『岩槻市内遺跡発掘調査報告書 平成9年度』
『岩槻市内遺跡発掘調査報告書 平成12年度』
「渋江鋳金遺跡」あり。その中に渋江氏についても書かれている。
(平成12年度)p10「本遺跡は、中世から近世に活動した渋江鋳物師の工房跡に比定されており、」
(平成9年度)p2「この鋳物師は「渋江鋳物師」と呼ばれ、15世紀後半の作品(いずれも鰐口)2点と戦国期の岩槻城主が諸公事免除の特権を承認した文書(写)などが伝わっている。
近世後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』に、「旧家者伴蔵 氏ヲ斎藤ト称ス。代々名主を勤メ、傍ラ鋳冶ヲ業トセリ。家系を失ヒタレバ来由詳ナラズ。岩槻太田氏及小田原北条家ヨリ与ヘシ文書ヲ蔵ス。宛名渋江鋳物師トアリ。サレバ往古ハ岩槻渋江町ニ住シ、御入国ノ後当初ニ移リシナルベシ」とあり、近世後期には本遺跡内(渋江鋳金遺跡)で工房が営まれていたことが知られる。」

『岩槻市地歴豆辞典』(岩槻市教育委員会 1980)
p25「渋江鋳物師」の項目あり
渋江鋳物師の説明あり。「渋江鋳物師は、江戸の開府に伴って地の利を失い、江戸に近く交通に便利な川口に移動したとされているが、その真偽は不明である。一説には、初め市内馬込に住み、その後金重に移り、そして岩槻渋江、次に村国に移ったとされている。以上の四ヵ所はいずれも金屎を出土している。」

『岩槻大百科』(岩槻地方史研究会 1994)
p116「渋江鋳物師」の項目あり。 「中世から近世初頭にかけて岩槻市渋江の地に居住した鋳物師集団。」応仁2年(1468)の銘の入った鰐口、文明6年(1474)の銘鰐口が現存しており、「武州文書に埼玉郡村国村(現岩槻市)斉藤伴蔵氏が永禄7年(1564)と天正2年(1574)渋江鋳物師の記載のある文書を蔵していた。」
p116「渋江氏」の項目あり。「渋江氏は、野与党の一族で、渋江郷を本貫地とし、大蔵経長の三子経遠が渋江郷に住し、渋江平五郎と称したのに始まるという。」(出自)1200年代には地頭として名前が見える。(勢力の一部。詳細記述あり)1525年北条氏綱の岩槻城責めの記述では岩槻城主太田資頼の家臣の名として渋江三郎が見える。渋谷三郎は武蔵七党の末裔で、上杉氏に仕え、太田氏が台頭すると太田氏の旗下に属するようになった。
p116「渋江鋳金跡」の項目あり。「岩槻周辺は、渋江郷と呼ばれ、中世から鋳造業が栄えた。村国の斎藤伴蔵家は江戸時代に名主を務めた旧家で、鋳物屋敷と云われている。」

『岩槻市史 通史編』(岩槻市 1985)
p198 「渋江氏・八条氏」の項あり。 「渋江氏は、渋江郷を本貫とした野与党の一族で、大蔵次郎大夫経長の三子経遠が渋江に住して渋江平五郎と称したのに
始まる。一説には、経遠は箕勾二郎大夫経光の兄ともいう。」などの記述あり。系図あり。
p264 「岩付築城」の項あり。「岩付には、平安時代以来野与党の渋江氏一族を中心に箕輪・金重・柏崎などの各氏が割拠していた。」(勢力分布) この項には渋江鋳物師の名称も出てくるが、それ以上の記述はなし。

『新岩槻史譚』(大和学芸図書 1955) 
p6-8武蔵七党のうちの平の良文の子孫野与氏の子孫が南埼玉郡を中心として割拠し、箕勾(みのわ)には箕勾氏がいた。箕勾経光の弟経遠が渋江郷に分家して本拠をかまえ渋江氏と称した。渋江郷は岩槻の地名。 渋江氏は頼朝の仕え永く地頭職をつとめた。鎌倉幕府没落と共にその領地は没収され、後弾正忠常景胤は古河公方に仕え孫の徹斎長善は医術を学んで江戸に住まい寛永十年に召し出されて御医師になったという。渋江氏の居館は文献がないので明らかでないが、おそらく城山辺ではないかと想像される。渋江鍛冶が住んでいた村国は城山の地続きを為す元荒川辺の地で、鋳物屋敷趾と云うのがある。城山を中心として富士宿村国一帯に渋江氏の一族がいたと断定される。渋江氏によって聚落が出来、其後長祿元年太田道灌が築城して一大外郭を囲らし、之をニ部して一つを武家屋敷、一つを商人街として商人を住居せしめたので、城下町が起り次第に発展したのである。

『岩槻 城と町まちの歴史』(聚海書林 1987)
p24-25平安時代も終えようとする頃、武蔵野国で大きな勢力を振るっていたのは、坂東八平氏と武蔵七党の武士団だった。そのなかの岩槻に関係をもつ野与党は、南・北両埼玉郡を根拠地とし、北足立郡、比企郡の一部に支配をのばしていた。 野与党は、二十一支族によって結合していたが、なかでも、野与党の宗家として活躍し、渋江郷の地頭職をつとめたのが渋江氏である。(中略)建久元年(1190年)の源頼朝の上洛に際しては、隋兵として箕勾経光、渋江経遠兄弟が同行したことが『吾妻鏡』に記されており、これが渋江氏に関する初出の記事である。
 
参考「坂東八平氏(ばんどうはちへいし)」は平安時代中期に坂東に土着して武家となった坂東平氏庶流の平良文を祖とする諸氏。八つの氏族に大別されていたため、「八平氏」と呼ばれた。

『北区史研究 2』(北区 1994)
p19- 渋江氏は埼西郡渋江郷を本貫地とする国人領主であるが、同氏に関する資料は少なく、享徳の乱(1455年)以降においては成田顕泰について述べた際に触れた(永正7年1510年)8月3日付上杉房書状写に「渋江孫太郎」が見えるのが初見史料である。
事前調査事項
(Preliminary research)
NDC
日本  (281 9版)
貴重書.郷土資料.その他の特別コレクション  (090 9版)
参考資料
(Reference materials)
『岩槻市内遺跡発掘調査報告書 平成9年度』(岩槻市教育委員会 1998)
『岩槻市内遺跡発掘調査報告書 平成12年度』』(岩槻市教育委員会 2001)
『岩槻大百科』(岩槻地方史研究会 1994)
『岩槻市史 通史編』(岩槻市 1985)
『新岩槻史譚』(大和学芸図書 1955)
『岩槻 城と町まちの歴史』(聚海書林 1987)
『北区史研究 2』([東京都]北区 1994
キーワード
(Keywords)
渋江(シブエ)氏
鋳物師
郷土資料 
埼玉県-さいたま市-岩槻区
遺構-遺跡
照会先
(Institution or person inquired for advice)
寄与者
(Contributor)
備考
(Notes)
調査種別
(Type of search)
事実調査
内容種別
(Type of subject)
郷土
質問者区分
(Category of questioner)
図書館
登録番号
(Registration number)
1000057734解決/未解決
(Resolved / Unresolved)
解決
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