レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2009/02/03 16:26
- 更新日時
- 2011/02/10 16:55
- 管理番号
- 2009-012
- 質問
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1898年、同志社普通学校に入学(翌年に中退)した馬場恒吾の同志社時代の著作があれば知りたい。
- 回答
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馬場恒吾の同志社時代は1898~1899年の1年あまりの短期間であり、本格的に執筆活動をはじめたのは、同志社中退後、早稲田に移り、早稲田をも退学した1900年、ジャパン・タイムス社に入社してからのようだ。詳細は回答プロセスを参照のこと。
- 回答プロセス
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1.「馬場恒吾」の人物像を知るために、本学契約DB「JapanKnowledge」を検索する。日本大百科全書、日本人名大辞典などでヒットした。
これらの記述から、明治、大正、昭和時代に活躍したジャーナリスト、政治評論家であることがわかる。日本大百科全書の説明には、
「同志社、東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)中退後、・・・」と書かれていることから、同志社との係わりは確認できた。
2.同志社と係わりがある人物であることは確認できたが、在学年などもう少し詳しい情報を知りたい。本学所蔵資料 「同志社山脈 :
113人のプロフィール / 同志社, 同志社山脈編集委員会編(請求記号:099.028||D9467)」 P.226~227に馬場恒吾の記述があり、
1898年に同志社普通学校に入学し、翌年中退したことがわかる。馬場の同志社時代は1年あまりの短い期間であったようだ。
また『近代日本のジャーナリスト 田中浩編』 P.1138の記述によれば、1897年同志社神学部に入学、1898年東京専門学校
(早大の前身)英語政治科に転じたものの・・・とある。両者に若干のずれがあるものの、1897年から1900年の範囲であろう。
3.馬場恒吾に関する資料をいくつか読んでみたが、二高、同志社、東京専門学校を転々としたこの時代は著作に勤しんだ気配はないようだ。
(同志社山脈p.226下段5行目) 「人生の岐路に立つ、まさに懊悩と煩悶の青春時代であった。」
(同志社山脈p.226下段10行目) 「信仰の亀裂と神学への疑問、将来の職業選択の迷いが生じて、何日も京の町をあてもなく
彷徨い歩く日々が続いた」
(近代日本のジャーナリスト:田中浩編p.1138 8行目~) 「馬場恒吾の八十年にわたる生涯は、次のように五期に分けられる。
第一期、修業時代。(中略) 97年同志社神学部に入学したが新神学を学ぶうちに信仰への情熱が薄れ、安部磯雄に憧れて
98年東京専門学校(早大の前身)英語政治科に転じたものの、1900年父親が支店長を勤めていた津山銀行の倒産によって学資絶え
退学するまで、シェークスピア、ドストエフスキー、ユーゴー、エリオット、エマーソン、バイロンらの小説や詩歌を耽読し、キリスト教にひかれた
「感傷時代」でもあった」
馬場恒吾著「自伝点描」 中公文庫 自伝点描 / 馬場恒吾著| 東京 : 中央公論社 , 1989.9 P.32 13行目に「それから一時は宗教家に
なろうと思って同志社の神学校に行った。それも半年くらいでやめて早稲田に行き、新聞記者になった。」との記述も発見。
参考資料にもあげているが、日本政治史の研究者である松田義男さんの個人ホームページに「馬場恒吾著作目録」が掲載されている。
この著作目録はかなり詳細なものであるが、馬場恒吾の同志社在学年に該当する年代には、著作は見当たらない。
4.馬場恒吾が在籍していた年代に同志社が発行した資料はない。
5.以上、調査したが、馬場恒吾の同志社時代の著作は見当たらなかった。
- 事前調査事項
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質問票が残っておらず不明
- NDC
- 参考資料
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- 『同志社山脈 : 113人のプロフィール』 (同志社, 同志社山脈編集委員会編、2002) (099.028||D9467)
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『近代日本のジャーナリスト / 田中浩編』 (東京 : 御茶の水書房 , 1987.2)
(070.21||K6
執筆者紹介にて「松田義男」さんについて調査) -
『近代日本と早稲田の思想群像』 (早稲田大学社会科学研究所日本近代思想部会編 1983.5)
(121||W4||2
執筆者紹介にて「松田義男」さんについて調査) -
松田義男個人ホームページ
(http://www1.cts.ne.jp/~ymatsuda/) - 自伝点描 / 馬場恒吾著 東京 : 中央公論社 , 1989.9 (CW||A||429)
- キーワード
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- 同志社関係
- ジャーナリスト
- 政治評論家
- 新聞人
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 質問者区分
- 学生
- 登録番号
- 1000051348