所蔵資料をお調べしましたが、当時の下野国の状況について言及された資料(史料)は確認できませんでした。寛喜の飢饉全般についてとなりますが、当時の天候等、調査の一助となりそうな資料を確認しましたのでお知らせします。
・『日本中世奴隷制論』(磯貝富士男/著 校倉書房 2007)
p.218-223 「第二章 寛喜の飢饉 第一節 寛喜の飢饉の経過とその影響期間」
p.287-290 「第三章 寛喜の飢饉と公武の人身売買政策」
「寛喜の飢饉における朝廷と幕府の対策年表」があり、寛喜の飢饉当時の気象状況も記載されています。
・『日本凶荒史考』(西村真琴/編,吉川一郎/編 有明書房 1983)
p.112-123「寛喜」の項に飢饉、気象状況などが記された多数の史料が紹介されています。
東国でも惨状が著しかったことなどが散見されます。詳細はご自身でご確認ください。
また当館未所蔵資料ですが、国会図書館デジタルコレクションにて、以下の記事を確認しました。
・一柳豊勝/著「寛喜の飢饉とその救済」(「同朋大学論叢 37」同朋学会 1977)所収
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4417011 (9-20コマ)
本文中に「中世における飢饉は、近世・江戸時代の享保、天明、天保等の飢饉にくらべるとその資料が非常に少ない。又それが京都と鎌倉を中心とした一部に限られている。」とあります。
なお調査の過程で、この頃下総から下野に移住した「動垂弥太郎国光」という人物がいること、この人物による申状に飢饉に関する記述があることが確認できました。
下野国の状況が分かる資料ではありませんが、確認した資料をお知らせします。
・『日本食物史』(江原絢子〔ほか〕/著 吉川弘文館 2009)
p.107「下野国堀籠郡住人動垂弥太郎国光申状」(「日本料理の誕生」より「飢饉の頻発と非常の食」の項)
・『網野善彦著作集 第5巻』(網野善彦/著 稲葉伸道〔ほか〕/編 岩波書店 2008)
p.72「国光は困窮のはてに国を出て、下野に行き、堀籠に落ち着いて、「住人」と言われるようになった」(「二つの世界、二つの政治」より「下人・所従」の項)
この出典となった史料は、栃木県史の史料編に収録されています。
・『栃木県史 史料編 中世4』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1979)
p.442「動垂国光申状」(「千葉縣 中山法華經寺文書」)
以下はお調べしましたが、関連の記述を確認できませんでした。
・『宇都宮市史 第2巻 中世史料編』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1980)
・『宇都宮市史 第3巻 中世通史編』(宇都宮市史編さん委員会/編 宇都宮市 1981)
・『宇都宮市史・宇都宮誌』(田代善吉/著 歴史図書社 1977)
・『栃木県史 史料編 中世1』(栃木県史編さん委員会/編 栃木県 1973)
・『下野文化生活史』(田代黒瀧/著 下野史談会 1953)
・『とちぎメディカルヒストリー』(獨協医科大学とちぎメディカルヒストリー編集委員会/企画編集 獨協出版会 2013)
・『栃木県の気象』(宇都宮地方気象台/編 気象協会関東中部本部 1963)
・『飢饉から読む近世社会』(菊池勇夫/著 校倉書房 2003)
・『台風・気象災害全史』(澤清治/編,日外アソシエーツ編集部/編 日外アソシエーツ 2008)
・『日本歴史災害事典』(北原糸子〔ほか〕/編 吉川弘文館 2012)
・『吾妻鏡 現代語訳 10』(五味文彦〔ほか〕/編 吉川弘文館 2015)