調査に先立ち、対馬藩に関する資料をお調べしたところ、以下の記述を確認しました。
・『藩史大事典 第7巻』(木村礎/〔ほか〕編 雄山閣出版 1988)【館内】
p.261-274「府中藩」のp.261「藩の概観」の項に「この易地聘礼の成功を賞して同(文化)十四年、義質に二万石加増の沙汰があり、…(中略)…下野国(栃木県)安蘇郡に二七九石余、同国都賀郡に二一二二石余と決定した」とあります。
このほか、p.265及びp.268の年表、p.271「領外(飛地)の支配機構」の項にも、「安蘇郡」・「都賀郡」の記述が確認できます。
上記から対馬藩の下野国における飛地は安蘇郡及び都賀郡であることがわかりましたので、各地域の資料をお調べしました。
調査結果は以下のとおりです。
なお、地域によって対馬藩領となった年代は異なります。
■両郡の対馬藩領に関する記述を確認した資料
・『徳田浩淳著作選集 6 下野の領地と村名』(徳田浩淳/著 国書刊行会 1983)
巻末「付録」の「下野国内に領地を有する大名一覧」の中に、p.224「対馬藩」の項があります。「所領地」として「都賀・安蘇の二郡の内十一カ村、所領高四、二〇二石。」との記述があります。
上記記述をもとに「鹿沼市・日光市・今市市・上都賀郡」、「栃木市・小山市・下都賀郡」、「佐野市・安蘇郡」の3項を調査したところ、以下の11村の項目に対馬藩領であった旨の記述を確認しました。
p.52-53「上粕尾村」
p.63「出流村」
p.104-105「上多田村」
p.106「船越村」、「戸室村」、「作原村」
p.109「山菅村」、「小屋村」
p.110「下仙波村」、「牧村」、「秋山村」
・『日本歴史地名大系 9 栃木県の地名』(平凡社 1988)
各村の項目をお調べしたところ、対馬藩の領地であったことが確認できました。
p.459-460「上粕尾村 現・粟野村上粕尾」
p.679「出流村 現・栃木市出流町」
p.684-685「小屋村 現・葛生町豊代」
P.685「牧村 現・葛生町牧」、「下仙波村 現・葛生町仙波」
p.686「秋山村 現・葛生町秋山」
p.687「作原村 現・田沼町作原」
p.688「船越村 現・田沼町船越」
p.689「戸室村 現・田沼町戸室」、「上多田村 現・田沼町多田、葛生町山菅」
(上多田村はp.682にも数行程度の項目があります。)
なお、「山菅村」については項目を確認できませんでした。
・『角川日本地名大辞典 9 栃木県』(「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店 1984)
各村の項目をお調べしたところ、対馬藩の領地であったことが確認できました。
p.62「あきやま 秋山<葛生町>」
p.116-117「いずる 出流〈栃木市〉」
p.281-282「かみかすお 上粕尾〈粟野町〉」
p.294「かみただむら 上多田村<田沼町>」
p.417-418「こやむら 小屋村<葛生町>」
p.429「さくはら 作原<田沼町>」
p.483「しもせんばむら 下仙波村<葛生町>」
p.625「とむろ 戸室<田沼町>」
p.798-799「ふなこし 船越<田沼町>」
p.825-826「まぎ 牧<葛生町>」
なお、「山菅村」については、「やますげ 山菅<葛生町>」(p.917-918)の項を確認しましたが、対馬藩領に関する記述は確認できませんでした。項目内に「もとは安蘇郡多田村の一部」とあったため、「ただ 多田<田沼町>」(p.567)及び「しもただむら 下多田村」(p.485)の項もお調べしましたが、「山菅村」に関する記述は確認できませんでした。
上記3点の資料や以下の項目でお伝えする資料の中に、出典として以下の資料が挙げられています。
・『旧高旧領取調帳 関東編(日本史料選書 3)』(近藤出版社/編、発行 1969)
「旧高旧領取調帳」は、江戸時代の全国の町村の状況を把握する目的で、明治時代初期に作成された台帳です。「解題」によると、当資料は大正12年9月に作成された写しの翻刻資料であり、関東地域8カ国の村々について「①旧村名、②旧領名、③明治元年取調旧高、④旧県名」を記載しています。
安蘇郡及び都賀郡の各村については、以下の項目に情報を確認しました。
p.509-523「下野国都賀郡」
p.524-527「下野国安蘇郡」
■安蘇郡の対馬藩領に関する記述を確認した資料
以下の資料に関連の記述を確認しました。
・『安蘇郡郷土史年表』(安蘇郡教育会/編 歴史図書社 1978)【館内】
紀元元年から昭和6年までの安蘇郡の歴史をまとめた年表です。
p.170「文政元」の項に「十月戸室村、船越村ハ宗對馬守ノ領地トナル」とあります。また、同ページの「文政六」の項には「野上村作原宗對馬守ノ領トナル」とあります。
・『葛生町誌』(葛生町誌編さん委員会/編 葛生町 1973)
「行政編」「第一章 明治以前」のp.41「第一節 葛生町と宗対馬守」の項に、文政元年に「旧山菅坪、旧下仙波村、旧牧村、旧小屋村、旧秋山村が厳原藩主宗対馬守の領地となった」とあります。
また、「序説」「葛生のあけぼの」「近世の葛生」「葛生地区の管轄」の中に、p.24-25「(4)山菅坪の管轄」の項があり、管轄の変遷が記載されています。
・『田沼町史 第6巻(通史編 上)』(田沼町/編、発行 1985)
「第2章 領主支配の展開」「第二節 彦根藩以外の領主」の中に、p.489-490「厳原藩(対馬・府中藩)」の項があり、「『旧高旧領取調帳』によれば、幕末期に上多田(一二二石余)、戸室(一八三石余)、船越(一八三石余)、作原(四四三石余)の四か村」が対馬藩領であったとの記述があります。
■都賀郡の対馬藩領に関する記述を確認した資料
以下の資料に関連の記述を確認しました。
・『粟野町誌 粟野の歴史』(粟野町/編、発行 1983)
p.262-263「第1章 近世の支配」「2 粕尾:長野地区の支配」の中に、「…(前略)…文化十四年(一八一七)二月から対馬の宗対馬守の領分」となったとあります。
・『粕尾の民俗 栃木県上都賀郡粟野町旧粕尾村』(東洋大学民俗研究会/編、発行 1974)
p.7「一.概観」に「上粕尾は、天保のころは宗対馬守の所領で、…(後略)…」とあります。
・『栃木市史 通史編』(栃木市史編さん委員会/編 栃木市 1988)
p.842「第三章 領主の財政逼迫と幕末の動揺」「第一節 旗本財政の逼迫と農村の窮乏」の中に「嘉永三庚戍年最寄組合村帳」の項があり、「一高二百四拾壱石 宗対馬領 千手院領 出流村」と記述があります。
p.879「第三章 領主の財政逼迫と幕末の動揺」「第二節 幕末期の動揺」の項に、「真岡は天領八万余石を管する代官所のあるところであり、…(中略)…出流を選んだのは、名刹千手院満願寺があることと、この地は対馬の宗氏の領地とて、その支配権もおよばない手うすな地ということにあったという。」とあります。
■その他 (参考情報)
国立国会図書館デジタルコレクションの資料の中に、以下の記述を確認しました。(当館では未所蔵の資料です。)ご参考までにお知らせします。
・『対馬近代史』(対馬日日新聞社, 1930)【当館未所蔵資料】
80コマ目(p.59)「藩地増加の恩命降下」の項に、「…(前略)…下野國の舊管地二郡(祿高四千二百餘石)は日光縣へ引渡すべき命があつた。」とあります。
(参考)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033934/80 [最終確認日 2020年1月10日]
以下の資料はお調べしましたが、お求めの情報を確認できませんでした。
・『栃木県の風土と歴史』(栃木県連合教育会/編 栃木県連合教育会 1976)
下野国内に対馬藩領があった旨の記述はありますが、具体的な地域名は確認できませんでした。
・『安蘇郡誌』(江森泰吉/編 安蘇商工名鑑 全国縮類共進会協賛会 1909)
・『目で見る栃木市史』(栃木市史編さん委員会/編 栃木市 1978)