レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2019/06/05
- 登録日時
- 2019/07/27 00:30
- 更新日時
- 2019/08/17 16:15
- 管理番号
- 6000047942
- 質問
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解決
大正1~2年の子どもの服装や履き物はどのようなものがあったか。また、その頃の着物として、縞と絣があり、どちらかが庶民向けということを以前も調べてもらったが、どちらだったか、知りたい。
- 回答
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資料①ビジュアル日本の服装の歴史③明治時代から現代
資料②古い道具と昔のくらし辞典
資料③近代子ども史年表 明治・大正編
資料④日本衣服史
・大正9年に「生活改善同盟会」が結成され、衣服など生活全般を見直す運動が展開。とくに衣服について洋服着用を積極的に進める方針が決定。このころより、小学校の男女児童にも洋服が広まる。それまでは男女ともきものに袴をはいたり、袴が手に入らない場合は前掛けをつけたりして通学と記載、その当時のものではないが、写真もあり。①P32~33
・明治時代末期に撮影された写真に添えられた文では、洋服を目にすることは珍しくなかったが、一般の人たちの普段着は、まだ着物だったとあり。②P52
・明治44年から大正3年くらいまでの、掲載されている子どもの写真を見ると、其の全ては着物を着用し、履き物としては草履や下駄を履いている様子が見られる。なお、縞か絣については写真では区別がつかなかった。。ただ、大正2年の写真で、“かすりの着物の小学生”と題されたものがあり(練馬区豊島小学校)③P280~P300
・明治30年当時については、当時の子どもの多くは男女とも木綿の絣に三尺帯をしめ、男子は地方では袴を着けない着流し姿で、都会では縞の小倉の袴をはき、下駄または草履で、なかには靴をはく者もあった。明治末期になって男女児に和服の上からエプロンを着用させることもおこなわれるようになったという記載があり。④P341~342
以上により、当時子どもたちは着物に草履か下駄を着用していたと思われる。③の子守をしている女の子の写真では前掛けをしている姿もあったため、仕事をするときなどは前掛けもしていた可能性もある。縞と絣については、④の子どもたちの多くは絣を着ているように記述されている。
- 回答プロセス
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以前の記録
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000234408 (2019年6月5日確認)
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000099814 (2019年6月5日確認)
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『ビジュアル日本の服装の歴史 3』 増田 美子/監修 ゆまに書房
- 『古い道具と昔のくらし事典』 内田 順子/監修 金の星社
- 『近代子ども史年表 明治・大正編』 下川 耿史/編 河出書房新社
- 『日本衣服史』 増田 美子/編 吉川弘文館
- キーワード
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- 歴史(レキシ)
- 子ども服(コドモフク)
- 縞(シマ)
- 絣(カスリ)
- 服飾(フクショク)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000259152