レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 20180202
- 登録日時
- 2018/03/26 00:30
- 更新日時
- 2020/03/27 12:23
- 管理番号
- 中央-2017-28
- 質問
-
未解決
江戸時代に浅草橋場にあった「銭座」について、以下のことを知りたい。
1 「銭座」があった時期と製造した貨幣。 2 貨幣に使用した原料 3 鋳造工程
- 回答
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1 銭座があった時期、製造した貨幣について
『東京市史稿 事項別目次索引』を<銭座>、<銭>、<浅草>のキーワードで調査した結果、資料1、2が見つかった。更に、都立DBでの調査と調査した文献の参考文献などから資料3-5が見つかった。
資料1のp.201に「銭座設置」の項目があり、寛永13(1636)年5月江戸浅草橋場において寛永通宝を鋳造したこと、浅草橋場の座人が、秋田小左衛門、末吉與右衛門、丸田屋文衛門であることが記されている。(鋳銭考)
また、p.208に「銭座蹟台東区橋場」の項目があり、「(前略)明暦2(1656)年浅草に新銭座を命ぜらるといへり。こは一旦廃せられて、此時再び命せられしにや。未たその詳なる説をきかず。」(御府内備考)とある。
資料2のp.235-236「浅草鋳銭座」の項目にも、同じような記述がある。
資料3の「第二部貨幣の歴史-銭貨」のp.41-43に「銭座」についての記述がある。
そこには、「(前略)寛永年間に入るころ、銅材の生産が急速に増大した。(中略)寛永13年(1636)、江戸浅草橋場、芝網縄手、近江坂本に銭座を設けて寛永通宝の鋳造が始まった。」とあり、「銭座は金座・銀座とちがって、常設のものではなく、(中略)その殆どが民間の請負事業として経営されたものである。(中略)銭座は銭貨の需要に応じて一般から応募の請負人が銭貨製造の特権を、期間を限って一時的に与えられるものであった。」
また、「寛永通宝の鋳造は寛永17年(1640)にいったんストップされたが、明暦2年(1656)に再開している。この頃、小農経営が進んで幕府の予想を超えて銭貨の必要性が高まったからである。幕府はこの問題を解決するために、同年、江戸浅草と駿府に銭座を設け鋳銭を命じ、さらに寛文8年(1668)には亀戸の広大な用地に銭座を設け、大規模な鋳銭を行わせた。」とある。
そして、「明和年間(1764-72)、銭が払底した。明和9(安永元)年(1772)、幕府は従来の方針を改めて銭座による鋳銭を停止し、金座(後藤家)の支配する鋳銭定座と銀座にのみそれを許可して、行わせることにした。」とある。
p.194の「第三部個別貨幣-近世銭」の「幕府官鋳銭(本座銭)」には、天保6年6月21日より金座番場で鋳造を開始し、同年9月11日より増設の浅草橋場町でも鋳造を開始した。慶応4年4月14日、維新の政変で本座は閉鎖、同23日より明治新政府は天保銭の鋳造を再開したが、明治3年(1870)8月5日にその機能を終えた。」とある。
2 使用した原料について
資料3のp.44、大吹所の説明の中に、「銅はじめ鉄・亜鉛・白目・錫・鉛などの各種金属を一定量混ぜ合わせて」とある。
資料4のp.125-126に「銅拾貫目、錫六貫目、鉛四百目の割合」(銅約61パーセント)とある。
3 鋳造工程について
資料3には、P.43-45に鋳銭法が載っており、大吹所、銭吹所、熔土、研場などの工程の説明がある。
資料5のp.244-246に銭座の組織と工程の説明がある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 貨幣.通貨 (337 9版)
- 参考資料
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- 【資料1】東京市史稿 産業篇 第4 / 東京都 / [編] / 東京都, 1954.3<0920/T727/T2-5-4>
- 【資料2】東京市史稿 産業篇 第5 / 東京都 / [編] / 東京都, 1956.11<0920/T727/T2-5-5>
- 【資料3】貨幣 / 滝沢武雄 / 編, 西脇康 / 編 / 東京堂出版(日本史小百科), 1999.1<3372/3064/99>
- 【資料4】日本の貨幣の歴史 / 滝沢 武雄 / 著 / 吉川弘文館(日本歴史叢書新装版), 1996.3<3372/3040/96>
- 【資料5】日本の貨幣 / 小葉田 淳 / 著 / 至文堂(日本歴史新書), 1958<3372/K688/N>
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 登録番号
- 1000233238