レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 登録日時
- 2016/08/18 00:30
- 更新日時
- 2016/08/18 00:30
- 管理番号
- 滋2016-0045
- 質問
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解決
江戸時代中期から後期にかけて、琵琶湖湖畔にどのような問屋が活躍していたか知りたい。土地毎の分布と名前がわかる資料はないか。
- 回答
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琵琶湖周辺の問屋について、土地毎の分布と名前がまとめられた資料は見当たりませんでした。『新修大津市史 第4巻』によると、寛延4年時点で確認されている琵琶湖の港は120個所にのぼり、すべてを確認することはできかねますので、主要な港であった大津、堅田、八幡、今津、海津、大浦、塩津のみ、該当地域の市史等を確認しました。
大津については『新修大津市史 第4巻』には記載がなく、『大津市史 上巻』に明和5年時点で57件の荷問屋があったとの記述があるものの、名前は掲載されていませんでした。
堅田については『近江國滋賀郡誌 全』や『堅田郷土史 第1輯』を確認しましたが、問屋についての記述は見当たりませんでした。
八幡については、『滋賀縣八幡町史 下』に寛政4年の問屋仲間の掟書の翻刻が掲載されており、この掟書のなかに「問屋 清右衛門」という名が挙げられています。
今津については、『今津町史 第4巻』に、享保19年の、小浜から今津に運ばれた荷物に関する両地の問屋の協議の文書が掲載されており、文末に「今津問屋出会い候人数 蔵屋四朗三郎 中井宗右衛門 (後筆)『八幡屋事』 西崎伝三郎 弥部八太夫 煙草屋次右衛門 塩屋弥右衛門 舟屋彦右衛門 丹後屋八右衛門 伊勢屋勘左衛門 (後筆)『若さやと称す』橋本兵右衛門 〆て十人」との記述があります。同資料には、文政6年に問屋株が定められたことについての文書や、安政6年にそれまで8軒あった問屋が1軒の会所となった際の不都合に関する文書の翻刻も掲載されています。
海津については、『マキノ町誌』に「享保九年の『郡山藩郷鑑』によると、海津中小路町には、荷物問屋壱軒(藤左衛門)、同中村町(加賀藩領を除く)には問屋の記入なし。同東町には問屋四軒((国枝)孫兵衛・(磯野)源兵衛・(安原)平兵衛・(舟屋)左近右衛門)〈注・()内は『願慶寺文書』による〉とあり、郡山藩領の海津三町には問屋が五軒ありその家名が記されている。加賀藩領中村村については、江戸初期には加賀藩海津屋敷があり管理人であった松屋九郎左衛門(松屋道安)がおり、その後その邸地を譲り受けて問屋を営んでいた松屋孫兵衛がいた。江戸中期に孫兵衛の子孫が絶えると、これを受け継いだ池田徳右衛門が問屋を営み、中村町の肝煎となっている」との記載があります。また同資料には、「寛延三年(一七五〇)の『大浦・山中脇道差留願い』(『宗正寺文書』)の末尾に、海津三町の問屋を代表して、海津問屋惣代石田藤左衛門」の名が挙げられているとの記述もあります。
大浦については『滋賀県の地名』に「問屋株は明和六年(一七六九)には蓮敬寺三(ほかに帳屋分二艘)、池田祐四郎二、勘兵衛一」とあります。
塩津については『滋賀県の地名』に安政5年に6軒の問屋があったとの記述がありましたが、名前については言及されていませんでした。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 内陸水運.運河交通 (684 8版)
- 参考資料
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- 1 新修大津市史 第4巻 近世後期 林屋辰三郎∥[ほか]編 大津市役所 1981年 S-2111-4 p.222
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2 大津市史 上巻 大津市役所∥編 大津市役所 1942年 S-2111-1 p.484-485 -
3 滋賀縣八幡町史 下 史料 八幡町∥編 清文堂出版 1969年 S-2141-3 p.406-408 -
4 今津町史 第4巻 資料 今津町史編集委員会∥編集 今津町 2003年 S-2113-4 p.650-652,662-663,666-670 -
5 マキノ町誌 マキノ町誌編さん委員会∥編 マキノ町 1987年 S-2112- 87 p.752-753 -
6 滋賀県の地名 平凡社地方資料センター∥編集 平凡社 1991年 S-2900- 91 p.1047,1043
- キーワード
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- 問屋
- 湖上交通
- 水運
- 大津
- 堅田
- 八万
- 今津
- 海津
- 大浦
- 塩津
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000195958