レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015/08/20
- 登録日時
- 2016/01/22 00:30
- 更新日時
- 2016/01/22 00:30
- 管理番号
- 6001013625
- 質問
-
解決
山田寅次郎(1866-1957)がトルコより帰国後、大阪で活躍していた頃(実業家/茶道宗徧流家元両面から)の資料を探しています。貴館でおわかりになること全て教えていただければ幸いです。
・大阪商業会議所(現大阪商工会議所)と寅次郎の関わり
・大阪財界人との関わり
・社団法人日土貿易協会の資料
・茶道宗徧流家元として資料
- 回答
-
(【 】内は、当館の請求記号です。)
山田寅次郎が大阪で活躍していた頃について、まとまった資料を見つけることはできませんでしたが、関連事項を含め記載のある資料をいくつか確認することができましたので、以下に資料および該当箇所を記載いたします。
大阪府立図書館の蔵書検索システムで書名に「山田寅次郎」を入れて検索したところ、以下の資料がヒットしました。
・『新月山田寅次郎』 山樵亭主人著 岩崎輝彦 1952 【352/4985/#】 大阪府立中央図書館所蔵
p.53に大阪商業会議所との関わり、社団法人日土貿易協会関係について、以下のように記載がございました。
「氏はファートベー代理大使に、紀州樫の崎のエルトグルール号遭難の事を話され、同地には石碑三基あり、何れも当時同地有志によって建てられ、十年毎に祭事を執行なし居る事を語り、且つ大阪は日本の商業中心地なるを以て、一度下阪せられては如何と話されしに、代理大使も賛成され、日を期して来阪の事となれり、於茲山田氏は代理大使に大阪商業会議所会頭稲畑勝太郎氏を紹介し、且つ曰く商業会議所が中心となり、日土貿易協会を設立し、以て両国の親善と福利増進を計り度を説き、両氏の賛成を得たるより、稲畑氏を会長に、代理大使を名誉会長に、山田寅次郎氏を理事長に、安住伊三郎、善積武太郎、石井勝太郎、高柳松一郎の四氏を常務理事に、中山太一、湯川忠三郎、阿部房太郎、福本元之助、森平兵衛、安宅彌吉の六氏を理事に、尾上金吉、山田三郎二氏を監事に挙げ、大正十四年十一月同協会の発会式を挙行、其後日本よりは繊維品、製茶、工芸品を輸送し、土耳古よりは山塩、綿花、羊皮、羊毛等を輸入することとなり、引続き商工省より補助金をも受くる事となり、土耳古にも支部を設け盛大に事業振興を見るに至れり。」
・『明治の快男児トルコへ跳ぶ』 山田邦紀著 坂本俊夫著 現代書館 2009 【289.1/5179N/ヤマ】 大阪府立中央図書館所蔵
p.165に大阪財界人との関わりについて、以下のように記載がございました。
「寅次郎はそこでこう返事した。『その点なら心配ご無用です。この事業計画については大阪財界人の井上保次郎、中村九兵衛、池永新兵衛、阿部彦太郎、阿部市蔵、宗像祐太郎が関係していて、いずれも私益のためでなく国益だけを考えています。損失を出したからといって大蔵省に泣きつくようなことは絶対にいたしません』」
当館の大阪文献データベース(http://refdb.library.pref.osaka.jp)で「山田寅次郎」をキーワードに検索すると、以下の資料がヒットしました。
・『なにわ拾遺 第1集』 大阪芸文協会編 生国魂神社 1970 【378/777/#】
pp.9-26に「大阪と茶道」と題して、昭和二十五年六月五日の講演会で山田宗有氏がお話されたことが記載されています。
・『大大阪と文化』 伊達俊光著 金尾文淵堂 1942 【042/1571/#】
p.149に以下の記述がございました。
「山田新月翁とは其後辱交二十餘年今日に及んでゐる。翁は尚頗る壮健、日土貿易協會理事長としてエルトグロール號邁難記念碑建設に盡され、現大阪希臘名餘譽領事に在任、一面宗偏流茶道宗家(雅名宗有)を守られ、毎年春は宗偏忌を、初冬は赤穂義士記念茶會を營み雅客來集する。」
また、CiNii Articles(http://ci.nii.ac.jp/)で「山田寅次郎」をキーワードに検索しますと、以下の論文がヒットしましたので、参考までにご紹介いたします。
・「山田寅次郎の軌跡 : 日本・トルコ関係史の一側面」 長場 紘 上智アジア学 14, 41-60, 1996-12-26
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000469537(CiNii PDF - オープンアクセス)
pp.53-55「第5章 帰国後のこと」に、以下の記載がございました。
p.53「帰国後, 大阪の高麗橋近くに居をかまえた。」
p.54「山田は1923(大正12)年5月, 宗偏流八世家元を襲名, 不審庵外学宗有と号した。さらに, 1928(昭和3)年に機関誌『知音』を創刊して宗偏流の発展にも力を注ぐことになる。」
「山田は来阪したファット・ベイ代理大使を大阪商工会議所の稲畑勝太郎会頭に紹介, その席上, 両国間の友好親善と交易関係を促進させるために協會を創設することで合意がなされた。この結果, 1925(大正14)年11月日土貿易協會設立の発会式が挙行された。会長に稲畑勝太郎会頭, 名誉会長にファット・ベイ代理大使を選出, 山田は理事長に就任した。」
・「イスタンブルの中村商店をめぐる人間関係の事例研究--徳富蘇峰に宛てられた山田寅次郎の書簡を中心に」 Dundar Merthan A. 三沢 伸生 東洋大学社会学部紀要 46(2), 181-220[含 英語文要旨], 2009-03
http://ci.nii.ac.jp/naid/120005274210(機関リポジトリ)
こちらの論文は以下のサイトより本文が閲覧できます。
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3093&item_no=1&page_id=13&block_id=17
こちらの論文には、山田寅次郎の大阪での活躍について記載がございましたので、該当箇所を以下に記します。
「第一次世界大戦後、日本において山田寅次郎は公私にわたって脚光を浴びる。まず1920(大正9)年に山田は東洋製紙株式会社取締役に就任し、1923(大正12)年5月6日には東京の日本橋倶楽部において茶道宗偏流第8代家元の襲名披露宴を挙行して、茶道家としての地歩を確たるものとした。同年にオスマン朝の崩壊を受けて、後継国家としてトルコ共和国が成立した。そして新生トルコ共和国と日本との間に、1924(大正13)年のローザンヌ条約を皮切りに外交関係の構築が急速に進められることとなった。
この状況にあって、山田は大阪商工会議所の稲畑勝次郎会頭に接近し、1925(大正14)年10月に大阪商工会議所内に稲畑を会長に推戴する形で日土貿易協会を設立させ、山田自身は理事長の要職に就任した。山田はこの日土貿易協会を通して日本とトルコ共和国との間の貿易事業の推進に乗り出したのであった。」
また、過去の新聞記事が検索できる以下のデータベースで「山田寅次郎」「山田宗有」をキーワードに検索しましたところ、山田寅次郎についての記事はございましたが、山田寅次郎の大阪での活躍について記載された記事は見当りませんでした。
・聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞)
・ヨミダス歴史館(読売新聞)
・毎索(毎日新聞)
以上で回答とさせていただきます。
[事例作成日:平成28年1月6日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
- キーワード
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000187423