レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年08月10日
- 登録日時
- 2015/12/25 16:28
- 更新日時
- 2017/01/23 00:30
- 管理番号
- 3A15003037
- 質問
-
解決
大坂の陣で活躍した七手組の「真野豊後守頼包」について、以下のことが分かる資料はないか。
・豊後守はいつごろから秀吉の家臣となったか
・豊後守の父親はだれか
・大阪城落城後の行方
- 回答
-
各々のお尋ねについて、以下の資料をご紹介しました。
・豊後守はいつごろから秀吉の家臣となったか
『豊臣秀吉軍団100人の武将』(宮本 義己/監修 ; 岡田 正人/監修 新人物往来社, 2009.7)
p.240「真野頼包」の項に、「近江長浜時代からの家臣」との記述があります。
・豊後守の父親はだれか
『戦国人名辞典:増訂版』(高柳 光寿/著 ; 松平 年一/著 吉川弘文館, 1981)
p.224「真野頼包」の項に、「助宗の子、父を継いで大坂七手組頭。」との記述があります。
『豊臣秀吉大事典』(新人物往来社/編 新人物往来社, 1996.6)
p.196「まの すけむね 真野助宗」の項に、「助宗の没後、その子の豊後守頼包が父の職(「大坂七手組」組頭)に就任していたとの見方もある。」という記述があります。
助宗の養子だったという記述や、実父が大橋長将という記述のある資料は見つかりませんでした。
・大阪落城後の行方
前出『戦国人名辞典:増訂版』(高柳 光寿/著 ; 松平 年一/著 吉川弘文館, 1981)
p.224「真野頼包」の項に、「落城の際脱出、のち藤堂高虎に仕えた(永夜茗談抜萃)。大坂御陣覚書が元和元年五月七日自殺としているのは誤りらしい。」との記述があります。生没年の記載はありません。
前出『豊臣秀吉大事典』(新人物往来社/編 新人物往来社, 1996.6)
p.196「まの すけむね 真野助宗」の項に、没年は元和元年とあり、「頼包は落城の前日に伊木遠雄と刺し違えたとも、脱出して藤堂高虎に仕えたともいわれており、父子の行動が混同されているのかも知れない」という記述があります。
2017.1.22追加
新刊の以下の図書に記載がありました。
『大坂の陣豊臣方人物事典 』( 柏木 輝久/著 ; 北川 央/監修 宮帯出版社,2016.12)
p.604-607に「真野豊後守頼包」の項目があり、p.604には「出自については以下の諸説がある」として五つの説が紹介されています。
- 回答プロセス
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1.中央図書館3F調査研究コーナーの該当年代の姓氏辞典類・系譜辞典類を確認。有用な記述なし。
2.商用データベース「日外e-レファレンス・ライブラリー」の「人物レファレンス事典plus」を”真野頼包”で検索。資料1がみつかる。
3..国立国会図書館リサーチナビ「日本人名情報索引(人文分野)データベース」を”真野頼包””真野助宗”で検索。資料2、3が見つかる。
4.国立国会図書館サーチを”真野頼包””真野助宗”で検索。児童書1件のみヒットあるも、記述なし。
5.商用データベース「CiNii Articles」で“真野頼包”、“真野一綱”で検索。論文検索・全文検索ともヒットなし。“真野助宗”で検索。論文検索ヒットなし。全文検索ヒット1件あるも、記述なし。
6.商用データベース「日外e-レファレンス・ライブラリー」を“真野一綱”で検索。ヒットなし。
7.新刊受入図書(資料4)に記載があることを確認。
- 事前調査事項
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豊後守については、一般的には真野蔵人助宗の子だが、養子だったとの説もあるようだ。その際の実父は大橋長将とのこと。
- NDC
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- 日本 (281 9版)
- 参考資料
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- 当館書誌ID <0080081123> 戦国人名辞典 :増訂版 高柳 光寿/著 吉川弘文館 1981 (資料1)
- 当館書誌ID <0000537693> 豊臣秀吉大事典 新人物往来社/編 新人物往来社 1996.6 9784404023322 (資料2)
- 当館書誌ID <0011897479> 豊臣秀吉軍団100人の武将(新人物文庫 み-1-1) 宮本 義己/監修 新人物往来社 2009.7 978-4-404-03719-0 (資料3)
- 当館書誌ID <0014222365> 大坂の陣豊臣方人物事典 柏木 輝久/著 宮帯出版社 2016.12 978-4-8016-0007-2 (資料4)
- キーワード
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- 真野頼包
- 豊後守
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000186263