(1)岡山歴史地理学会発行の『郷土珍味を味ふ会 第一回』(資料①)によると、三門だんごについて次のような記述がある。
「三門団子の由来は古く、伝説によると菅公御左遷の御時三門の地にて御休憩遊ばされ、其の時団子を奉ったといふ。尓来其の地をミカドといひ団子の名もミカド団子といふ様になったといふ。明治時代には団子を商ふ店は九軒あったが今はすたれて唯一軒あるのみである。団子は蓬団子に餡をつけ、指型をつけて上に和三盆糖をふったものである。」
(2)資料②『岡山秘帖』には、「蜀三人と三門団子 築城史に秘む岩穴」には、三門団子について次のように書かれている。(なお、旧漢字は常用漢字に、旧かな使いは現代かなに置き換えて引用する。)
「徳川が江戸幕府を開いて諸国大名の参観交替に拠って外様大名の手足を封じた当初より西国往来の要?地、岡山城下にかゝる万成坂を下った三門の地に諸国の大名が休憩していたもので、此の休憩中を利用して、足軽、人足共を相手に初めたのが焼餅であって、草津の姥母が餅、静岡の安部川餅と共に三門の焼餅の名は漸次名声を馳せたものであって、且て蜀山人がこの三門を訪れた際 菊の紋つけた三門の焼餅はゆきゝの人ひくらひつかしむ と詠じさせた。…(中略)…それはさて置き菊の紋をつけた三門の焼餅は何時の時代からか蓬餅と変った。この時であった三門団子の名は、吉備団子とともにお国自慢の二名物となった。」
(3)岡長平著の『岡山話の散歩』には、資料②にある蜀山人の歌と三門だんごについて下記のような記載がある。
「菊の紋(指あとが、菊のようなので)、ついた三門(御帝)の焼餅は(昔は“あんころ”ではなかったらしい。他にも焼餅とある)、行き来の人を、喰い(位)つかしむ これを、蜀山人作といい、鐘近(前にある)といい、いろいろせんさくしてるが、この両人なら、も少し上手だ。出所は、十返舎一九の遺作と称する『西国陸路、金草鞋(きんのわらじ)』という…(後略)」とある。
(4)坪田譲治は「子ども十二か月」(資料④『坪田譲治童話全集』第13巻 所収)の中で、「わたしの生まれた村は島田といいましたが、となりの部落は三門といいました。そこは街道すじになっていましたので、家いえがすこし町らしくなっていました。よもぎだんごというのが名物になっていて、だんごは小さくて、あんこがどっさりついていました。これが喜ばれたのでしょうか。三門のよもぎだんごという名物となって、二軒も三軒もそれを売っていました。それでお墓まいりの帰り道、すこしまわり道をして、わたしのうちでは、そのだんごをときどき買ってきました。」とある。
(5)内田百閒は「餓鬼道肴蔬目録」(資料⑤『ちくま日本文学全集 005 内田百間』所収)の中で、「昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナッタノデセメテ記憶ノ中カラウマイ物食ベタイ物ノ名前ダケデモ探シ出シテ見ヨウト思イツイテコノ目録ヲ作ッタ」と註を書き、その目録の中で「三門ノよもぎ団子 註 みかどハ岡山市ノ西郊ニアリ」を挙げている。