レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2015年5月1日
- 登録日時
- 2015/09/20 11:15
- 更新日時
- 2015/09/20 12:28
- 管理番号
- 県立長野-15-009
- 質問
-
解決
北国新聞の初代社長である赤羽万次郎(1861‐1898年。松本生まれ)は、親族に父小木曾庄蔵、長兄小木曾庄吉(弁護士)、弟林政文(1869‐1899年。北国新聞二代社長)がいる。
1 子ども(少なくとも3人)が、それなりの学校を出て活躍している小木曾家はどんな家柄だったのか。
松本での住所も知りたい。
2 林政文は林政通の養子となっている。政通はどんな人物か。
3 小木曾庄吉は、万次郎と何歳違いだったのか。没年は分かるか
- 回答
-
1について
北深志町鍛治町で商家をしていたらしい、ということしか判明しなかった。
資料は以下のとおり。
(1)山田貞光「民権ジャーナリスト赤羽万次郎について」(『信濃』第25巻第3号 信濃史学会 1973年
p231-232)
「赤羽万次郎は、文久元年一一月、松本の商家、小木曾庄蔵の次男に生まれた」とある。
(2)『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社 1989年 当館図書請求記号【N283/13】
p574に弟「林政文」(小木曾元吉)の項目があり、生誕地が「北深志町鍛治町」とある。
(同資料には「赤羽万次郎」の項もあるが、生家については上記林政文の項目以上の記述はない。)
(3)『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 別篇人名』東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会/編・発行 1982年
【N233/10/別2】
p369に弟「林政文」の項があり「松本鍛治町小木曽庄蔵三男」とある。
他の調査資料は以下のとおり。
『中村弥六物語』森下正夫/著 高遠町 1997年 【N289/なかむ】
『布引丸事件の真相』森下正夫/著 高遠町図書館 1994年 【N289/なかむ】
『松本繁昌記』山内実太郎/著 郁文堂 1898年 【N233/18a】
『信州の自由民権運動』信州民権100年実行委員会/編 銀河書房 1981年 【N209.6/15】
『<復刻>奨匡社資料』信州の民権100年実行委員会/編 銀河書房 1981年 【N209.6/16】
『奨匡社資料集』有賀義人、千原勝美/編 信州大学教育学部松本分校奨匡社研究会 1963年
【N209.6/17】
『長野県近代民衆史の諸問題』 龍鳳書房 2008年 【N209.6/47】
ただし、『松本市100年地図帖』小松芳郎/責任編集 しなのき書房 2007年 【N233/165】のp40-
41に「松本南深志町図」が掲載されている。
正確な位置を推測することは困難だが現在の大手4丁目と思われる地点に「小木曾庄蔵」と読める家屋が
確認できる。家屋面積等など他にも記載されている事項があるようだが、非常に縮小されて掲載されている
ために判読ができない。現物は松本市立博物館が所蔵している。
また、関係資料を所蔵する可能性のある施設として、松本市文書館を紹介。
2について
士族であったこと以外は不明。
「国立国会図書館デジタルコレクション」で、『長野県営業人力車取締規則註解』林政通/著 長野億中
館 長野 1887年 (http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/796921)が閲覧でき、奥付の「著訳
兼出板人」に「長野県士族 林政通 長野県上水内郡長野町千六十七番地居留」とあるのみ確認できた。
発兌者である「長野億中館」が同一の住所。
長野町在住であることから、松代藩士だった可能性がまず考えられるが、『松代町史』大平喜間多/著
松代町 1929年 【N212/236/2】(1986年臨川書店による復刻)に掲載されている「明治四年正月の調
査に係る給禄高」には、林政通はない。
3について
以下の資料から安政4年11月(日不明)生、昭和6年4月1日没と考えられる。
・『信濃名誉録』西澤俊司/編・発行 1893年 【N280/61】(衆議院議員選挙権有資格者の住所職業姓
名出生年月地租等を掲載)の、筑摩郡松本町の項に「代言人 小木曾庄吉 安政四年十一月」とある。
・『若き木下尚江』中野孝次/著 筑摩書房 1979年 【N289/きのし】
(社会運動家、ジャーナリスト、作家として知られる木下尚江が明治24~25年の一時期、小木曾家の
書生となっていた。)
p178に「当時長野には松本出身の成功した人物として小木曽庄吉(安政四(一八五七)生れ、
(中略)その弟に、民権運動家・新聞記者赤羽万次郎がいる)がいた。」とある。
・『長野県弁護士会戦後50年物語 上』長野県弁護士会会史会報編集委員会/編 長野県弁護士会
2001年 【N327/19/1】
大正10年に長野弁護士会へ入会したという矢島武氏による「私の長野県弁護士会史(1)」とい
う文章が掲載されている(1977年発行の長野県弁護士会会報第1号に掲載されたものの再掲)。
この中に、「古い弁護士には色々の風格の人があった。(中略)入会一号は林登金太先生
(中略)、七号が小木曾庄吉先生(中略)、と続いた。」とあり、昭和46年に行われた座談会で、
「小木曾鉄吉」(「庄吉」の誤植と思われる)について、逸話の後にやはり矢島武氏が「昭和六年ご
ろですか、亡くなったのは。」と話している。
・『木下尚江全集 第19巻』木下尚江/著 清水靖久/編 教文館 2003年 【N980/25/19】
p217-218に小木曾太郎(「上田市新参町裁判所前宛」)の書簡が掲載されている。
書簡の内容から、木下尚江が長野の小木曾邸に寄宿していた時期から40年経った1932年3月29日に
小木曾の一周忌に際して送ったものと推定されている。
1932年=昭和7年に一周忌を迎えるのは、小木曾庄吉の死去が上記『長野県弁護士会戦後50年物語
上』で「昭和6年頃」とされているのと一致する。
・『信濃毎日新聞昭和6年4月2日5面
小木曾庄吉氏の死去に関する記事が掲載されている。没日は同年4月1日とある。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 系譜.家史.皇室 (288)
- 個人伝記 (289)
- 参考資料
- キーワード
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- 赤羽万次郎
- 小木曾庄蔵
- 小木曾庄吉
- 林政通
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000180201