『日本弘道会百十年史』日本弘道会百十年史編集委員会/編集 日本弘道会1996
第二章 日本弘道会の創立と発展 第一節 明治時代
p132 「日本講道會職員姓名録」の中に「講師並著譯者(中略、6名記載) 同 木村一歩」「會計員(員長)木村一歩」
p136寄付金を募集したという内容で、『講道会叢説』巻一附録p4-5からの引用があります。26名の姓名と金額が記載されている中に「金四拾圓(中略、2名記載)同 木村一歩」
p155明治20年9月に行われた組織改革と役員改選について、『弘道会雑誌』書編第一冊p19-20からの引用があります。この中に「常議員(イロハ順)(中略、7名記載)〇△木村一歩」〇は日本講道会時代からの職員、△は講師兼著訳者を指します。
ここで引用されている『講道会叢説』、『弘道会雑誌』などの資料の他にも木村氏について記載があるかもしれないと推測できますが、いずれも当館には所蔵がありません。一部、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧可能なものもあります。
『慶応義塾百年史 上巻』慶応義塾/編 慶応義塾 1958
第二章 近代教育の先駆 第一節 慶応義塾の命名と独立の精神
p246-254「「義塾」と名のつく諸校一覧」の中にp247「地方別:赤坂 校名:鞭駘義塾 所在地:第三大区八小区赤坂仲之町六 設立年:明治八年 設立者又は主長たる者:木村一歩」
p257-265「慶應義塾之記」の「日課」p261「ハイスクール 一、地理書会読 水曜日 土曜日 第一時より 木村且又」,p262「一、文典並雑書素読 日曜日の外 毎朝第九時より十時迄 木村且又(後略、7名)」
第三章 義塾学風の伸長 第一節 米国風教育課程の採用
p466-467『慶應義塾五十年史』からの引用「新銭座時代の教員」一覧の中に「木村且又」
第三節 義塾英学の全国的進出
p571「維新前早くも幕府の開成所に小幡篤次郎(中略)らが教えに行ったのを始め、それが開成学校、大学南校、(中略)東京大学と発展していく間に、さらに肥田昭作、(中略2名)木村一歩、(中略4名)といった人々が赴任しており」
地域関係の人物事典や鳥羽藩関連の資料からは木村氏の名を見つけることができませんでした。
主な調査済資料は次の通りです。
『鳥羽の人々』、『校訂伊勢度会人物誌』、『三重先賢伝 復刻』、『三重先賢伝 続 復刻』、『聖地三重の偉材と之を嗣ぐ者』、『地方発達史と其の人物 三重県』、『鳥羽市史 上巻(慶応4年の分限帳に記載見つからず)』、『鳥羽市史 下巻』、『三重県史 資料編 近代1』、『三重県史 資料編 近世4』