レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/08/14
- 登録日時
- 2015/03/20 00:30
- 更新日時
- 2015/03/20 00:30
- 管理番号
- 6001007537
- 質問
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解決
『元正間記』に、「~ビイドロの障子を立て、天井縁も同じビイドロにて張りつめ、清水をたたへ、金魚を放し~」記載がある、淀屋の豪奢な屋敷はいつ頃できたのでしょうか。
この文の前に、「本名は岡本、其子三郎右衛門老年に及び隠居して、古安といへり。彼の古安が代に~」とありますが、二代目のときと推測できるのかどうか、はっきりしません。
- 回答
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随分すでに調査されている通り、確たる年代が明記されているものはなく、推定で年数を絞っていくことになります。
(【 】内は、当館の請求記号です。)
調査済み資料にもあがっていますが、
「淀屋一家に就て」 高梨光司 『上方 [復刻版] 9巻』 上方郷土研究會 新和出版 p528-531 (第105号) 【雑/468】
に『元正間記』の引用があり(豪邸)の記述に「古安が代に」とあります。
また、こちらも調査済み資料で、
『鴻鵠の系譜』新山通江著 淀屋顕彰会 1980.12 【535/537/#】の
p124 「登竜門に立つ」に「淀川の築堤工事完成を契機に、常安一家は眷族うち揃って大坂に進出した。」(十三人町、大川町)(1596年)
p355 (1619年)常安町に邸居を建てて別居、淀屋橋店は淀屋橋家として分立
p359 (1643年)12月5日、言當没す。言當の甥、箇斉、淀屋橋家三代を継承す。
とあります。
現淀屋橋南西あたりに、居を構えたのは1596年、
淀屋橋店分立 个庵(古安)(1619年)、
个庵(古安)没す、甥箇斉継承す(1643年)
上記の記述が正しければ、1619年から1643年の間ということになります。
また、『元正間記』の引用の解釈が「古安が代に」は既に豪邸があった、という意味であれば、1596年から1643年の間ということになります。
当所の発掘調査等の資料や、建築年代が記載されている資料を見つけることができませんでした。
[事例作成日:平成27年2月24日]
- 回答プロセス
- 事前調査事項
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『江戸時代の上方町人』教育社、『淀屋考千夜一夜』たま出版、『大阪春秋』62、『鴻鵠の系譜』淀屋顕彰会、『新修大阪市史』3巻、『上方(復刻版)』9巻第105号「淀屋一家に就て」、『大阪墓碑人物事典』、『宮元又次著作集』8巻、国会レファレンスデータベースに「淀屋辰五郎の住んでいた家を再現するための参考になる資料をみたい」という質問の回答に『共立女子短期大学文科紀要22』中に元正間記の翻刻ありとありますが、未確認です。
- NDC
- 参考資料
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- まちに住まう大阪市都市住宅史編集委員会∥編平凡社
- 新修大阪市史第3巻新修大阪市史編纂委員会∥編集大阪市
- 大阪史蹟辞典三善/貞司∥編清文堂
- 上方 [復刻版]上方郷土研究會新和出版 9
- 鴻鵠の系譜新山/通江∥著淀屋顕彰会
- キーワード
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- 淀屋(ヨドヤ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 大阪
- 質問者区分
- 図書館
- 登録番号
- 1000169544