レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2014/08/01
- 登録日時
- 2014/10/03 00:30
- 更新日時
- 2014/10/03 00:30
- 管理番号
- 滋2014-0054
- 質問
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解決
岡山県倉敷市立玉島図書館所蔵の「川田甕江日記」に岩谷立的という人物が登場します。慶応元年(1865)の日記では6月1日から8月14日までに14回登場します。岩谷立的は近江の水口藩士だと思われますが、その略歴を知りたい。なお、川田甕江は備中松山藩士で、慶応元年ころ漢学などを教えて江戸にいたようです。
- 回答
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ご質問のありました岩谷立的は巌谷一六であると思われます。巌谷一六は明治期の書家として著名で、明治・大正期の童話作家巌谷小波の父です。
その根拠は以下の通りです。
1 『新潮日本人名辞典』によりますと、「巌谷一六 天保五・二・一-明治三八・七・一一(一八三四-一九〇五 ) 明治期の政治家、書家。近江(おうみ)生まれ。水口(みなくち)藩の侍医の子。名は修、字(あざな)は誠卿。 幼い時は弁治、のち立的と名を改める。別号に迂堂・古梅など。(後略)」とあります。
2 『甲賀郡志 下巻』では、「巖谷修」の項において天保10年(1839)父の死去に伴い家を継いで名を「立的」と 改めたと記載しています。
3 『近江国水口藩加藤家分限帳』では、「岩谷弁治」が嘉永7年(安政元、1854)12月に名を「立的玄覧」に、 慶応4年(明治元、1868)年には「迂也」と改めたと記載しています。
4 『巌谷一六』では、岩谷「?治」(弁治)が家督を相続したのは天保10年1月20日で、「立的玄覧」を名乗った のは嘉永7年(安政元、1854)2月とし、安政4年(1857)頃から「巌谷」という苗字の表記を多く使用するよう になったと記載しています。さらに、明治期に入ってからの東京での川田甕江らとの交流についても記載しています 。「立的」とは岩谷家の当主が代々継承する通称ですが、同書などによりますと、この名を名乗ったのは一六が最 後のようです。
巌谷一六の略歴につきましては、上記の4点の資料のほか、『国史大辞典 1』(吉川弘文館)、『日本史人物辞典』(山川出版社)、『日本史広辞典』(山川出版社)、『滋賀県百科事典』(大和書房)などにも掲載されています。
- 回答プロセス
- 事前調査事項
- NDC
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- 個人伝記 (289 8版)
- 参考資料
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- 1 新潮日本人名辞典 尾崎秀樹∥[ほか]編集 新潮社 1991年 R-2810-オ p.229
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2 甲賀郡志 下巻 甲賀郡教育會∥編 甲賀郡教育會 1926年 5-2130-2 p.1339-1334 -
3 近江国水口藩加藤家分限帳 [甲賀市教育委員会∥編集] 甲賀市教育委員会 2011.3 SB-2533- 12 p.25 -
4 巌谷一六 橋口 稔∥[著] 橋口稔 2013.4 S-7233- 13 p.1,4-5,15-21 -
5 国史大辞典 1 国史大辞典編集委員会∥編 吉川弘文館 1979年 R-2100-1 p.872 -
6 日本史人物辞典 日本史広辞典編集委員会∥編 山川出版社 2000年 R-2810-ニ p.112 -
7 日本史広辞典 日本史広辞典編集委員会∥編 山川出版社 1997年 R-2100-ニ p.186 -
8 滋賀県百科事典 滋賀県百科事典刊行会∥編 大和書房 1984年 S-0300- 84 p.59
- キーワード
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- 岩谷立的
- 巌谷一六
- 巌谷修
- 川田甕江
- 川田剛
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 人物
- 質問者区分
- 社会人
- 登録番号
- 1000160529