①『須磨浦病院創立100年』巻末年表によると「須磨浦療病院」(明治22年創立 院長:鶴崎平三郎)は昭和51年「須磨浦病院」に名称変更し現在に至る。質問者の言う「須磨療養所」という名称はない。
②『須磨浦病院創立100年』巻末年表 「病院関係の出来事」欄に「明28 俳聖正岡子規診察」とあり。大橋翠石についての記述はなし。
「歴史と神戸」第4巻2号(1965年5月)P21 結核ー正岡子規 「喀血していたので…須磨保養院に移ったものである。其処で須磨浦療病院長鶴崎平三郎の診療を受けた。」「子規が療養のために止宿していた「須磨保養院」は、いわば当時の貸別荘で、いまならヘルスセンターとでも言うべき施設だった。
③下記参考資料欄AーDには、いきさつについての記述はみつからず。
場所が現在の須磨浦公園の一部にあたるので公園事業の視点から以下の資料も調査したが情報なし。
『神戸市史 第3集 行政編』P360 公園計画
『新修神戸市史 行政編3』P287 公園事業
『日本公園百年史』日本公園百年史刊行会 1978
④『須磨浦病院創立100年』P26ー29に経歴
「歴史と神戸」第4巻2号(1965年5月)P16-26「須磨浦療病院」P17に略歴
「須磨保養院」「須磨浦花壇」関連記述
※日本の結核病院の草分けである「須磨浦療病院」とそれに伴って設けられた「須磨保養院」が混同されているという記述が散見された。
『須磨浦病院創立100年』
p165ー166 正岡子規と須磨浦療病院
「つまり子規は此の保養院(後に須磨花壇と名称がかはり営業していた)が今は取り佛はれ須磨浦公園の一部となってゐる)におゐて隣接の須磨浦療病院鶴崎平三郎の往信を受けた」
「子規が養生した須磨保養院と言ふのは現在あとかたもない。よく吾々の須磨療病院と混同したいゝ加減な文書があるが(中略)「神戸医師会沿革史」の医師履歴の記載の中、横河某の項に明治二十五・六年頃「須磨保養院」を一の谷御用林の一部を借り下げ株式組織を以て設立せりとある。」
p281ー2 須磨浦療病院創立九十八周年を回顧して
「この松原は明治の半ば頃は、須磨花壇と言って保養地になっていました。(中略)ところどころに一軒建ちの療養家屋が点在し、当院の診療を受けたのです。」
『須磨:須磨神戸市編入50周年記念誌』P52ー53 第27話 須磨保養院と正岡子規
「須磨保養院がいつごろ消失したのか確かな記録はない。しかしその後身の一つが「須磨花壇」や「敦盛花壇」となって大正ー昭和のころまで残っていたらしい。」
その他 : 正岡子規の入院、「須磨保養院」について記述あり
『評伝竹中郁 その青春と詩の出発』 P58
『定本高濱虚子全集 第9巻』 P341ー342 須磨と兵庫