・資料①『岡山県大百科事典 上』の「くらしたうし 鞍下牛」には、「季節的に移動する貸借役牛(牡)。吉備高原から中国山地盆地部,山陰,山陽の平野へ多数田植え作業用役牛として貸し出され,その最盛期は1900~1925(明治33~大正14)の間であった。」とある。
・資料②『岡山民俗事典』には、「くらしたうじ」とあり、「中国山地方面から南部低地の農家に貸出す預け牛をいう。反対に南部低地の農家から預かる牛の場合にもいうことがある。」とある。
・資料③『岡山県史 第15巻』には、「牛飼育の少ない地帯や、所有しない家もあって「鞍下牛」とか「預け牛」慣行があった。季節的働き牛である。鞍下牛というのは、多頭飼育地帯で田植えを早くすませる中国山地などの農家が、田植えのおそい、しかも、牛の少ない南部の平野地帯や津山盆地・久世盆地・鳥取平野・伯耆の平野などの農家に牛を貸して、田植え準備の牛耕をさせた。津山盆地がすむと、さらに、鳥取平野へ出すというのもあった。鞍下牛は雄牛であった。」とある。(同様に資料④『岡山の民俗』にもあり)
・資料⑤『岡山県史 第1巻』では、『本郷村誌』(資料⑥)を元に、牛頭数の変遷が紹介され、「明治以後、飼育目的が自己耕作地の農耕専門だけでなく、鞍下牛として貸し出すために頭数が増加したが、昭和十年代からは鞍下牛が減少に向かい、雄牛が減少した。阿哲郡南部の吉備高原は、鞍下牛供給地帯であり、鞍下牛の貸付料で生計を立てていたのである。」とある。また、鞍下牛の賃貸契約には、直接契約と鞍下牛周旋業者(鞍下博労)をとおすものがあることが紹介されている。
・資料⑥『本郷村誌』では「牛馬飼育目的による分類」に、「飼育目的が農耕専門から運搬用又は駄賃牛(くら下牛をも加えて)も漸次増加して農家の増収をはかったが、明治末期から大正にかけて本郷村くら下牛は、県南はもとより山陰伯耆方面へも相当進出していたが、昭和初期に入って漸次下り、昭和二十年以後は殆どなく、却つて他村より貸る状態となった。従って蕃殖或は育成肥育のものが極めて多くなった。」とある。
・資料⑦『落合町史 民俗編』には、貸与賃金等について、「上山や田原山上では、バクロウの世話で、四月から六月ごろ、鳥取県方面の田植え作業に貸出し、昭和初期で五円前後の貸料をもらっていた。」と記載がある。
・資料⑧『勝田郡誌』には、「昔から鳥取県には無畜農家が多く、そのため春秋二期の耕作時には、岡山、広島方面から「鞍下牛」を借りうけ、一定額の賃金を支払ってこれを使用した。鳥取県ではこの時期には、随所に牛市を開いて、この牛の貸与賃金を定めていた。この風習は終戦頃まで続いた。」とある。
・資料⑨『奈義町滝本の民俗』には、「田植えの遅い因幡地方の博労と組んで、こちらの牛をまとめて貸し出す、鞍下牛もあった。借りた農家は、牛を力いっぱい働かせて次の農家へまわしたりするので、牛はやせ衰えて、米二俵分の鞍下料を稼いだという。」とある。
・資料⑩『美作の民俗』には、「クライタウジというのは低地の村にアズケル牛であるが,また低地からヤトッテくる牛のこともそう呼んだ。これらの貸借には金銭を支出せず,単に飼料を与えてかわりにコエをふませるだけであった。美甘村でも本村の方では児島郡あたりから鞍下牛をたのみ,かわりにバクロウに金を渡していたが,これも仲介と移動の費用であって,相手の農家にわたすものではなかった。」とある。