岡山日報は戦前と戦後に二紙が刊行されている。
1 戦前
(1)創刊について
・『山陽新聞百二十年史』(資料①)によると、1889年(明治22)2月6日に「自由党機関紙として『岡山日報』創刊。社長に山崎弥平、主筆に植木枝盛を招く。一枚八厘、月十八銭。」(参照p.739)とある。また、同書には、坂本金弥の弟坂本義夫が合同新聞二万号記念特集(昭和13年8月29日)に寄せた「坂本金弥と機関紙」(参照p.63)の文章が掲載されており、その中に「資金千円、発行数千枚で経営さるゝことの要領を得、帰って間もなく山崎、坂本、中山(嘉代治)、脇本某の分担出資で岡山日報が発行された。正に明治二十二年で、坂本が二十五歳の時であった。植木枝盛が主筆として大阪から招聘された。最初の社長は山崎で、幾もなく坂本が之れに代った。然るに自由党が後藤象次郎の大同団結と板垣退助の愛国公党に分裂するに当り、前者に属する石黒涵一郎と中山寛が岡山日報を主宰することとなり、愛国公党の小林樟雄と山崎一派はめざまし新聞を発行した」と記載がある。この文章の中の「山崎」とは山崎弥平、「坂本」とは坂本金弥のことである。
・『山陽新聞百二十年史』(資料①)によると、1890年(明治23)に第一回帝国議会が行われた頃は、『山陽新報』の対立紙として、帝政党系の『備作時事』とともに、自由党機関紙「岡山日報」が紹介されている。(参照p.58-59)
・『山陽新聞九十年史』(資料②)によると、1892年(明治25)3月25日に、「岡山市西中山下一六〇番邸より発行するため出願していた『岡山日報』が認可された。」(参照p.323)とある。
(2)発行部数について
・『山陽新聞百二十年史』(資料①)によると、「明治27年 3,077、明治28年 2,719、明治29年 2,690」(参照p.68)とある。
(3)休廃刊について
・『山陽新聞百二十年史』(資料①)によると、1899年(明治32)4月3日には「鷹取田一郎、『岡山日報』を引き継ぎ『関西新聞』を発行。金主大橋平右衛門、社主小林樟雄、主筆に小室重弘(屈山)を招いた。」(参照p.746)とある。
・『山陽新聞九十年史』(資料②)によると、1904年(明治37)8月29日に、「岡山市西中山下、岡山日報は休刊中であったが廃刊届けを出した。」(参照p.344)とある。
(4)岡山県立図書館の所蔵状況
・原紙では、1894年(明治27)8月25日発行分を1部のみ所蔵。奥付欄にある当時の岡山日報社の住所は「岡山県岡山市大字西中山下三十三番邸」となっている。
※上記(1)~(3)の内容は、『山陽新聞七十五年史』(資料③)、『山陽新聞八十五年史』(資料④)、『山陽新聞百年史』(資料⑤)、『山陽新聞百十年史』(資料⑥)、『山陽新聞百三十年史』(資料⑦)に、前掲もしくは再掲されている記述もある。
2 戦後
(1)創刊・休刊について
・1999年(平成11)3月29日発行の『岡山日報』第一面(資料⑧)に岡山日報社の「社告」が掲載されている。それによると、「本日付けをもちまして岡山日報を無期休刊とさせていただきます。昭和三十一年の創立以来四十三年間の歴史を刻んだ本紙の名を消すことには断腸の思いがありますが、主筆として健筆をふるい経営者として社を代表し社務を統括していた原敏社長の急死により生じた亀裂は、ついに埋めることができませんでした。」とある。
・1999年(平成11)3月9日発行の『岡山日報』第一面(資料⑨)に「休刊のお知らせ」が掲載されている。それによると、「本紙主筆、代表取締役社長、原敏は八日朝、交通事故のため急逝いたしました。就いては十日付け以降しばらくの間休刊させて頂きます」と記載し、3月14日まで休刊している。
(2)岡山日報社について
・1962年(昭和37)6月15日発行『岡山新報』(資料⑩)によると、岡山日報社の住所は「岡山市西古松244」とある。1999年3月29日発行の最終号(資料⑨)にも、同じ住所が記載されている。
・『岡山県人物・人材情報リスト2013 第1巻』(資料⑪)によると、(1)の原敏氏は、「夕刊岡山」の記者や、カバヤ食品のカバヤ文庫の企画などを経て、「岡山日報」の主筆となり、社長となったことが記載されている。原敏氏については、このほか、『おまけの名作 カバヤ文庫物語』(資料⑫)、雑誌『世界』の記事(資料⑬)、『岡山日報』の記事(資料⑭~⑱)にも記載がある。
・1997年(平成9)1月1日発行『岡山日報』(資料⑲)までは発行所は「株式会社岡山日報社」となっているが、次号の1月6日発行『岡山日報』(資料⑳)より発行所が「有限会社岡山日報社」に変わっている。
(3)岡山県立図書館の所蔵状況
・原紙にて、1962年(昭和37)6月15日~1999年(平成11)3月29日<以降休刊>と号外を所蔵するが、その間に多数の欠号がある。