レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2013年03月15日
- 登録日時
- 2013/07/25 14:19
- 更新日時
- 2013/09/22 11:18
- 管理番号
- 埼熊-2013-029
- 質問
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解決
遣唐使の留学期間は20年で、帰りたくても帰れない人がいたが、空海や最澄は1年半から2年で帰ってきた。これはなぜか。留学の期間が短縮できたのか。
- 回答
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以下の資料に関連する記述があり紹介した。
『遣唐使 日本歴史新書』
p113-122「留学期間と留学生数」の項に、以下の記述あり。
「(遣唐使も)末期になると、留学の様相が(中略)すっかり変わって、1、2年の短期留学者が多く(中略)初期・中期には見られなかった請益生・請益僧・請益・還学生・還学僧の名称が現れてくる。これは(中略)一応日本文化の基礎付けが出来たので、なお研究の足りない部分を留学によって補わうという傾向に変わってきたことが一つと、この時期に活発となった新羅民間貿易・海運業者の協力を得て、帰朝が比較的容易になったこと、(中略)我が政府の財政状態は、(中略)長期留学を困難とする事情にあったことなどに帰因する」との記述あり。『日本宗教史論集 上』
p95-130 堀池春峰著「入唐留学僧と長安・西明寺」
「空海の西明寺寄宿は極めて大きな成果をもたらした。西明寺菩提院東閣の経蔵の聖教類や、あるいは青竜寺恵果の師導をうけて多数の真言密教の秘書・新訳経典を採訪し、当初20年留学の予定を在唐2年にして帰国したのである。」と記述あり。『遣唐使と古代日本の対外政策』
p86「遣唐使に随行して入唐し、学問・修行を努める人々には、長期滞在の留学生と短期滞在の請益生とがあった。」との記述あり。
p105「空海は延暦度の遣唐使の際に派遣された留学僧であったが、恵果と出会い、密教の伝受に与ると、早速に帰国の途を探り(中略)帰着している。」とあり。『遣唐使全航海』
p177-196「第十四回遣唐使 藤原葛野麻呂 804-806」の節あり。
使節団第1船に「留学僧(るがくそう) 空海」、使節団第2船に「請益僧(しょうやくそう) 最澄」の名があり。また、以下の記述あり。
「判官高階真人遠成が長安に来た機会を捉えて、空海と橘逸勢が同行して帰国することを願い、高階遠成がそれを了承して唐帝に願い出た結果、それが許されたことを明らかにしている。」「空海も橘逸勢も短期の請益僧ではなく、長期の留学僧、留学生として日本が唐に申請しての滞在であったから、僅々二十ヶ月ほどの滞在で留学を切り上げて帰るのは、本来、違法であった。(略)ところがこの場合は、たまたま一年遅れで高階遠成が入唐したので、奇跡的に帰国できる機会が降って湧いたのである。」
- 回答プロセス
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〈遣唐使〉について百科事典で調べる
『世界大百科事典 9』(平凡社 2005)
p186-187〈遣唐使〉の項
「遣唐使の長官は大使である。(中略)これに留学生・留学僧らが加わった」「使節には容止儀礼ある貴族の子弟が選ばれ、留学生・留学僧には当時の傑出した人材が選ばれた」とあり。
『国史大辞典 5』(吉川弘文館 1985)
p204-207〈遣唐使〉の項
p205-206に〈遣唐使一覧〉あり。最澄・空海については〈学問僧・留学生〉および〈随伴者〉の項に記載があるが、遣唐使の任期に関する記述はなし。
自館目録を〈留学僧〉で検索する
『日本宗教史論集 上』(回答資料)
『日本の対外関係 2 律令国家と東アジア』(吉川弘文館 2011)
p212-226 石田実洋著「留学生・留学僧と渡来した人々」
「隋に遣わされた留学生・留学僧は、そのほとんどが朝鮮半島諸国からの渡来人や僧侶であった。」と記述あり。また、最澄は翌年、空海はさらにその翌年帰国した旨の記述があるが、理由はなし。
上記資料の参考文献を調べる
『遣唐使と古代日本の対外政策』(回答資料)
自館目録を〈遣唐使〉で検索する
『遣唐使 日本歴史新書』『遣唐使全航海』(回答資料)
- 事前調査事項
- NDC
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- 日本史 (210 9版)
- 参考資料
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- 『遣唐使 日本歴史新書』(森克己著 至文堂 1955)
- 『日本宗教史論集 上』(笠原一男博士還暦記念会編 吉川弘文館 1976)
- 『遣唐使と古代日本の対外政策』(森公章著 吉川弘文館 2008)
- 『遣唐使全航海』(上田雄著 草思社 2006)
- キーワード
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- 遣唐使
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 事実調査
- 内容種別
- 質問者区分
- 個人
- 登録番号
- 1000134283