レファレンス事例詳細
- 事例作成日
- 2011/06/08
- 登録日時
- 2013/01/23 02:00
- 更新日時
- 2013/04/29 22:37
- 管理番号
- 6000004444
- 質問
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解決
豊中市にある大島町(おおしまちょう)という地名の由来がわかる資料はあるか。
- 回答
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『住居表示概要』によると、大島町は大島光義の領地であったことと、大島鳩恩会という自治会組織があったことから、大島町の名がついた。
- 回答プロセス
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『豊中たずねある記』(鹿島友治)p225「豊中の地名(旧村名)の由来 庄内村」に、現在の大島町を含む庄内村は、近世には旗本大島丹波守系、同佐太夫系、同鉄太郎系の大島家三家の所領であったとの記載があるが、地名と大島氏の関係についての記載はなし。
『角川日本地名大辞典27 大阪府』(角川書店)p233「おおしまちょう」には、大島町の地名は昭和39年からで、もとは豊中市庄本・洲到止(すどうし)・菰江(こもえ)の各一部との記載があり。
『庄内と庄内周辺史跡散歩』(森本吉道)p18「江戸時代の庄内は旗本大嶋三家と幕府領の入組支配だった」には、慶長3(1598)年に大嶋光義が庄内を領有するようになってから、江戸時代の終わりまで庄内各村は大嶋家(川辺大嶋家、迫間大嶋家と鉄太郎家)と幕府領の入組支配であったとあるが、地名との関わりについての記載はない。なおp29「私の思い出」には、庄内の旧村名が読みにくいため住居表示がされ、大島町などの地名ができたとの記載があるが、地名の由来についてはふれていない。
『新修豊中市史第1巻 通史1』(豊中市)付図「豊中市大字小字図8」を調べると、大字洲到止の一部、現在の大島町1丁目・2丁目付近に西大島・東大島という小字があり。これと『庄内と庄内周辺史跡散歩』付図「豊能郡庄内村全図」(大正8年)を照合すると、洲到止の集落のあったあたりが小字西大島・東大島に該当するようであるが、断定はできない。
さらに『住居表示概要』(豊中市)を調べたところ、p22「町名の由来について」に、庄内地域を支配していた大島光義と、大島鳩恩会という自治会組織があるところから、大島町の名がついたとの記載があり。
『新修豊中市史第1巻 通史1』(豊中市)で大島光義を調べると、大嶋雲八光義の名でp464などに記載があり。天正13(1585)年に豊臣秀吉から豊嶋郡椋橋(くらはし)村・州至止(洲到止)村に領地を与えられている。同書p494-498「旗本大島家の所領」に大嶋氏の略系図や、光義の所領が分割され子孫に受け継がれていった経緯を見ることができるが、椋橋村(椋橋之庄のこと。17世紀中期段階では、上津嶋・嶋・今在家・嶋田・野田・三屋・牛立・菰江・嶋江・庄本・洲到止の11ヵ村)のうちどの地域を誰が治めていたかについての記載はない。
- 事前調査事項
- NDC
- 参考資料
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- 『角川日本地名大辞典 27』「角川日本地名大辞典」編纂委員会/編 角川書店
- 『豊中たずねある記』鹿島 友治/著 サンケイ新聞生活情報センター
- 『庄内と庄内周辺史跡散歩』森本 吉道/編・著 森本 吉道
- 『住居表示概要』豊中市土木部管理課/[編集] 豊中市土木部管理課
- 『新修豊中市史 第1巻』豊中市史編さん委員会/編集 豊中市
- キーワード
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- 大島(オオシマ)
- 豊中(トヨナカ)
- 庄内(ショウナイ)
- 地名(チメイ)
- 由来(ユライ)
- 大島光義(オオシマミツヨシ)
- 照会先
- 寄与者
- 備考
- 調査種別
- 文献紹介
- 内容種別
- 郷土
- 質問者区分
- 一般
- 登録番号
- 1000127054